相手の「枠」を感じる

今週久しぶりに東京の渋谷近辺を外出しました。
昨今の自粛もあったので、家の近所で用事を済ませることが多く、電車に乗ることもせずに、都心に出るのは実に2ヶ月ぶりぐらいでした。逆に都心に出られないことをストレスに少しも感じることがなかったので、実は自分のライフスタイルに都心は必要ないのでは、と思わずにはいられません。
普段の仕事のMTGはzoomを駆使し、自分の欲しい物は、amazonや他の宅配サービスを利用することで手に入りますから、わざわざ都心まで出る必要もないというのが気づきでした。これらの行為は、仕事だったり何かが欲しいという目的が明確なものなので、それは「想定された世界」ともいうこともできます。




けれど手に入るものは手に入れることが出来、やりたい仕事も恙無くこなせていたこの2ヶ月の間、ストレスが全く無かったといったら嘘になります。自宅の中にいる時、いつも何か面白いことは無いかなと考えていたりもしました。もしかしたら僕は目的ありきのこの「想定された世界」というものに、少し飽きてしまったのかもしれません。その点、ベランダで育てているルバーブはハーブ系の植物なので、暖かくなってきた頃から育ちが早くなり、昨日無かった葉が突然出てきたり、双葉が枯れてしまったり、虫がわいたりと変化が日々もの凄いスピードだったりしていて全て自分の「想定の範囲外」だったので観察することが密かな日々の楽しみになっていました。



さて、ここ最近よく報じられていたり、この2ヶ月間ほどの騒動の際にtwitterなどを眺めていると、デジタルでの人々の対立が散見されました。人ってリアルに面と向かってもこんなに人を罵倒していたっけ?とクエスチョンマークが浮かぶほどです。顔が見えない人のことだからこういったことが出来るのかとも思ったのですが、もしかしたら相手の言動(相手の「枠」)と自分の「想定された世界」の「枠」の違いを認識しているからついつい対立してNOと言いたくなってしまうとも言えそうです。
さあ、この「枠」はリアルで対面していた時はどうだったでしょうか?何を見たらこの「枠」を認識できていたのでしょうか?
少なくとも人の考え方、つまり「枠」はその人の言葉から生まれてくると考えられます。しかし言葉はとても大事な要素の一つでしょうが、言葉以外の物もとても重要になってくるのだと思います。それは、言葉と言葉の間の息継ぎの仕方や目線、表情などです。それらを複合的に感じて人の「枠」が生まれるのだろうと考えることもできるでしょう。
僕はマガジンa quiet dayの取材で北欧を旅している時に、この「枠」について良く考えています。せっかく時間を共有しているのだから良い時間を過ごしたいという姿勢の表れなのかもしれませんが、互いに主言語が異なるのでなおのこと、お互いの「枠」にある共通点を感じるように探すように心がけていたりします。



話を渋谷近辺に戻します。
2ヶ月ぶりの友人たちとの会話を終えてすごく感じたのが、「リアルに会って話ができると喋りやすい」ということでした。zoomなどのデジタルツールでは言語は伝えられても、感情までは乗って行かなかったのだということが良くわかりました。実際に目で感じることの出来る目配せや間、微妙な表情の変化が言葉と相まってとても心地いいコミュニケーション空間が生まれます。それは一緒にいる人たちで包まれる「枠」とも言えそうです。
あなたの「枠」はどんなでしょうか?

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