囚われのチベットの少女 囚われのチベットの少女
2007/09/11
「非暴力闘争」ー チベットの解放のために闘うチベット人、難民の唯一の手段であり生命線だ。
「非暴力」は「不服従」の行動が伴ってこそ効力を発揮する。残念ながら、チベット難民、特に役人たち(亡命政府)の非暴力闘争には「不服従」がしばしば欠落する。そのことが、「闘い」をどこか中途半端なものとしている感は否めない。先の記事「ダライ・ラマ回想(5)」でガンジーの非暴力闘争を引き合いに出しながら、このことは既に述べた。
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先日、チベット人政治囚(良心の囚人)のルポを読んだ(『囚われのチベットの少女』)。ガワン・サンドル、尼僧だ。彼女はチベット難民の”シンボル”の様な存在だから、以前より名前は聞いたことがあったし、監獄で撮られた囚人服を着た彼女の写真も見たことがあった。だが、お恥ずかしいことに、彼女が「シンボル」になっていく経緯を、この本を読むまで殆ど把握していなかった。
ル・モンド紙記者が描き出すガワンの姿は圧倒的だ。彼女が初めて投獄されたのは、1990年、11歳の時。他の多くの尼僧たちと同様、「チベットに自由を!」と町中で叫んだからだ。それだけの理由(“罪”?)。1年後に釈放されるが、彼女は自らの信念に従い、再び公衆の面前で「自由」を訴える。そして、再度収監。そこで待っていたのは、前回とは比較にならない拷問の数々。150センチの小柄な少女に向けられる凍りつく様な拷問に義憤を覚えない者はいないだろう。完全に常軌を逸している。人間の理性などそこにはない。これが、経済発展を謳歌する中国という大国の政府の悲しむべき裏の顔なのだ。
それでも、ガワンはひるまない。決して、当局に対して信条を曲げようとはしない。いや、益々意志を強固にし抵抗するのだ。「非暴力・不服従」。彼女こそ、それを正に体現している。「シンボル」となるもの当然だ。
98年の段階で、度重なる延刑のすえ彼女の服役は2014年までとされた。実に、トータルで二十年以上の刑期だ。無論、まともな裁判など行なわれていない。「私はおそらく出獄出来ないでしょう。私の人生を(チベットの大義のために)犠牲にするわ」と、出獄する友人の尼僧に話したという...
幸いにも、この本の出版後、2002年10月、欧米の人権団体などからの圧力の結果、ガワンは釈放された。___________________________________________________________
ガワンの釈放に先立つ2001年6月、著者であるル・モンド紙のブルサール氏はダライ・ラマにインタビューしている。その中で、ガワンの非暴力闘争をダライ・ラマは賞賛する。「ダライ・ラマが彼女を『格別なチベット人』であると、その勇気を讃えたことを、ガワン・サンドルは大喜びするだろう」とブルサール氏は単純に喜ぶ。しかし、私は腑に落ちなかった。果たして、本当にそうだろうか?
以前の記事でも書いたが、大多数のチベット人、難民たちが心より希求するのは“チベットの真の解放”、即ち、「独立」。これが、偽らざる気持ちだ。ガワンが身命を賭して訴えたのも「独立」に他ならない。だが、ダライ・ラマを中心とする亡命政府は既に独立の夢を捨て、中国の枠内で生きる道-”高度な自治”を求めている。この政策転換をしてから早20年になるが、何ら進展はない。
チベット完全統治(チベットの中国化)を押し進めるための中国政府の狡猾な“時間稼ぎ政策”にまんまと嵌り翻弄される「チベット亡命政府」の体たらくを、ガワンは今どう感じているのだろうか..._________________________________________________________
昨今、「非暴力」が”癒し”の如く、どこか“ファッション”の様に軽々しく語られている気がする。しかし、実際はガワンの闘いからも明らかな様に、それは精神・肉体共に忍耐を強いられる非常に過酷なものだ。ある種の「覚悟」が必要なのだ。
本日、「9.11」。あの「事件」から6年。 国家テロ、組織テロ、大国テロ...暴力の連鎖は全く止む気配がない。「非暴力」の意義を皆が真剣に問い直し、そして、実践していく時だ。話は本題より逸れるが、「非暴力」は人類が直面する最大の緊急課題「地球温暖化」にも有効である。
そういったことも踏まえた上で、ガワン・サンドルの命を賭した「叫び」を、是非、聞いてもらいたい。ご一読を。