アアルトのデザインから感じた詩的な優しさ──「アイノとアルヴァ 二人のアアルト」展を見て
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いろいろなことが立て続けにありここ数年で1番沈んでいた時期を乗り越えつつある。1人の時間を増やしたり、仕事と関係のない友人との時間を増やすことで、少しづつ自分の感覚や生活を大事にできている実感がある。ただ緊急事態宣言やそれに続く措置といった制約の中で「休み」や「遊ぶ」イメージが自分の中で作りにくいままなのも確かで、無意識のうちに仕事に篭ってしまう習慣と未だに格闘している。
最近はだいぶ暖かくなり街に人も増えてきた。仕事の合間に職場から坂を下り目黒川の近くでランチをすると、自分の気持ちと相反するように歩く人の表情が晴れているのが分かる。
この日は春の陽気と言わんばかりの陽が出ていたものの風は冷たく、まだ寂しい冬がしぶとくそこに居座っているような天気だった。春が来たことに漠然とした期待はありつつ、胸の奥にずっしりと重く何かが残っているような自分の気分には、その寒さがしっくりきた。
ゆっくり起床して用賀での用事を済ませ、砧公園の中にある世田谷美術館に着いたのは3時半頃だった。天気が曇り始めていたので、車をおいて寒さから逃げるように緑の中を通り抜け、美術館に入る。辺りに住む人の生活に馴染んだ公民館のような、優しい印象のその空間に入ると、少し居心地の悪いようなホッとしたような温かさに包まれる。
予約をしていなかったので次の入場時間待つ必要があると受付で伝えられる。特にやることもなかったので、地下のこじんまりとしたカフェで紅茶を飲む。アイスの乗った甘いお菓子を頼んでいるのに、友人はいつも通りアイスティーにガムシロップをこれでもかと注ぎ、美味しそうに飲んでいた。
時間になったので受付に向かう。「アイノとアルヴァ 二人のアアルト」展を見に来たのは確かだったが、チケットを買うときに「建築のやつ?を」と言うくらいに僕らは内容を把握していなかった。砧公園の横を通るたびに緑の中にひっそりと佇むこの美術館に足を運びたいなと思っていたが、建築っぽい企画展がやっているというくらいの認識で僕らはそこに居た。
QRコードの大きく書かれた奇妙なチケットを入り口で渡され、展示室へ向かう。廊下にはアアルトの家具やインテリアがIKEAのショールームのように急に置かれていた。僕らは特にそれを見ることなく、展示室へ向かった。
建築やデザインの展示はいつも面白く鑑賞できるが、内容は対象化され、心を動かされることが少ない。建築やデザインは「正しい」。それはロジカルで合理的で、時に自分が惨めに思えるほど真っ直ぐで固い。だから自分の現実や生活を揺さぶられることは少ないし、自分の中にあるものと交わることも少ない。そう感じていた。
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本展覧会は有機的なフォルムを持つ家具や「イッタラ」の花瓶などを通じて広く知られ、モダンデザインの世界で後世に大きな影響を与えたアルヴァ・アアルト。そして彼に寄り添い、公私共にパートナーとして活動を続けた妻アイノの軌跡を辿るものだ。
建築やデザイン史におけるアアルトの立ち位置をよくわかっていない自分でも、彼らが合理主義的なモダニズムの中でも「自然」や「暮らし」に重きを置いた特徴的な存在だということが展示の序盤からよく分かった。
座りながら作業しても手の届く位置に収納棚や調理小物入れが配置されたキッチン。子供の動きが手に取るように想像できる部屋。量産可能でどんな階級でも購入できる家具。小さくても快適で衛生に気を配られた空間。そしてなにより効率的であること。合理主義的な実用性や機能性に目が行きがちだが、それらの空間やプロダクトが生まれてくる過程において、自然の持つ有機的な形や佇まい、家族との暮らしから生まれてくる生活の優しさを至る所で感じることができた。
展示のタイトルに「二人のアアルト」という言葉があるように、今回の内容は既に知られているアルヴァの仕事におけるアイノの影響を強調した展示のように(相対的に)見ることができた。
それは概要にもあるように
アイノがパートナーになったことで、アルヴァに「暮らしを大切にする」という視点が生まれ、使いやすさや心地よさを重視した空間には、優しさと柔らかさが生まれ
たことを強く物語っていたし、それが
国際的潮流となった合理主義的なモダニズム建築の流れのなかでも、ヒューマニズムと自然主義の共存が特徴として語られるアアルト建築は、独自の立ち位置を築いた
ことを単なる事実としてでなく、2人の運命的な出逢いと協業から生まれる想像的な営みの結果として捉えるきっかけを与えてくれた。
彼らの作った空間や暮らしはロジカルな「正しさ」の結果だけではなく、もっと詩的で柔らかく、ロマンチックな表現として存在していた。
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──目的や「正しさ」に従い、達成される結果は常に特別だ。それは非日常的な感覚を与えてくれるし、僕らのつまらない現実にメリハリを与えてくれる。自分が仕事や人生でずっと考え、追いかけてきたものはそんな「正しさ」だったように感じる。
自分の会社を立ち上げること。売り上げ目標を達成すること。マネージメントしているアーティストを大舞台に立たせてあげること。遡ればそれは高校大学とほとんどすべての時間を捧げてきたスポーツで目指していた「日本一」なんていう、わかりやすい「正しさ」に行き着くのかもしれない。
目的や「正しさ」は不安や怖さから逃げる理由、それから目をそらすために没頭する機会をくれる。目の前の階段を登っていけば何かを得ることができる。そんな信仰を生んでくれる。だからそれを信じて走り続けてきたし、今思えばそれによって自分の持つ不安や怖さに向き合う機会を自ら閉ざしてきた。
その反動からだろうか。自分の素直な感情や地に足ついた生活の感覚をどこかに置いてきてしまったような感覚が最近ずっとある。自分の気持ちや考えていることよりも、目的や「正しさ」を優先するあまり、自分自身の主観が把握できなくなり、強い意志を持っているのに主体的でない虚無感が常に付き纏っている。
仕事は至って順調だと思う。自分がこれまでずっと指を咥えて見ていることしかできなかった大きな単位の文化活動にも関われているし、その単位に対して自分が解決したい問題も明らかで、困難でも道筋がみえている。
Tohjiが『KUUGA』を作ってくれたことと、アルバムのお披露目になった大阪でのショーケースは、その問題に対して自分ができる精一杯の回答になっていたと思う。でもなぜか自分の中の充足感は高まることがなく、むしろ「不足している」という実感、大きな穴が広がり続けていくような感覚だけがある。
その原因が自分でもわからず、とにかく少しでも良くなるようにゆっくりとした毎日を過ごしていた。
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そんな自分にとってアアルト夫妻のつくる空間は、もっと言えばアアルト夫妻の手から生まれた有機的な曲線は、それが強い目的や「正しさ」に向かって作られたものではなく、自然や暮らしといった日々の小さな喜びの積み重ねから生まれているように感じられた。その曲線はアルヴァとアイノという2人の人生が偶然交わりあうことで始まり、その出逢いを喜び、讃え合っているように思えた。
2人の芸術家の人生が日々の暮らしを通じて深く結びつき、そこから生まれた溢れんばかりの優しさが、時代と共に生活が変わりながら熟成していく喜びが、彼らの作る空間やデザインからひしひしと伝わってきた。
建築やインテリアの文脈ではもっと工業的な理解が正しいのかもしれない。しかし自分にとって彼らの生み出す曲線は、2人の暮らしから生まれる喜びの現れのように感じられたし、なによりその想像力が工業的に量産され、いまも様々な人の暮らしに溶け込み優しさを生み出していることに胸を打たれた。
大きな目的や「正しさ」を追い求めることは必要だ。アアルト夫妻も合理主義的なモダニズムの理論に賛同し、多くの人々の生活を向上させた。しかし彼らの作った空間やデザインから人々の生活に溶け込む想像力は、大きな目的や「正しさ」からは生まれない。それは日々の暮らしや小さな幸福感を生活の中で享受し、自分に素直に生きる人だけが作れる詩的な感覚から生まれていた。彼らがモダニズムの中で守り抜いた美学は、人間が暮らす時に生まれる優しさへの根源的欲求だったのかもしれない。
喜びや優しさを育むきっかけは、大きな目的や「正しさ」が達成された特別な瞬間だけでなく、毎日の暮らしの中にひっそりと漂っているという当然のこと。そしてそれを共有するためには特別な時間や場所が必ずしも必要でないということをこの日気付くことができた。そしてアアルト夫妻の作る空間や暮らしは、いまの自分には痛いほどロマンチックで詩的に感じられた。
美術館を出ると日はだいぶ低くなっていた。冷たい風に吹かれながら薄着の友人は背中を丸め「よかったね〜」と笑う。その笑顔がいつもよりゆっくりと、確かに自分を暖めてくれる気がした。
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