書評『伊福部昭 ゴジラの守護神・日本作曲界の巨匠』と温泉
写真は「に浸かりて足跡」
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2024/03/14 初稿
2024/03/16 写真掲載
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2024/03/07 (木)
ある温泉施設帰り際での出来事。コインロッカーから靴を取り出し、三和土に近づくと、何やら父と娘が押し問答。私は脇のベンチに腰掛け、靴を履こうとすると、「ねえ!」という幼子特有の甲高い声が施設内に響く。およそ6歳から7歳か、女児は胸襟前に両腕を組み、怒りに満ちた目で父を睨みつけている。その姿はピンピンどピンク、ピンクい寝衣装は上下でセットアップ。上り框に「ゴロッ」と転がるちっこいスニーカーの色は無論、ピンク。
「ねえ!」 小さな巨体の咆哮は「怒ってるんだからね!」と、彼女は繰り返す。側から見れば微笑ましいものだが、私の記憶と体験からいえることは、疎ましさ炸裂中のキッズを見つめ、微笑むのはあまり得策とはいえない。
「おい、そこのニヤけ面。先に生まれただけのくせしやがってよ。ペしゃんこにされてえのか!」 おむずかりは悪化し、宥める両親の苦労は増すばかり。しかし、こうした場面においてお婆ちゃんの介入は不思議と成功する確率が高かったりもする。きっと何らかの磁場、この場合の磁場はThe☆婆というニュアンスも含むが、そういう塩梅、あんじょう具合よい何かが発せられるのだろう。
ご乱心の彼女の機嫌を損ねてはならないと、私は節目に靴を履くのだが、その間も「ねえ!」は連打されている。
状況に変化が生じた。靴紐を結ぶ私の視界に見えるは床面に敷かれた赤い絨毯と、赤い私の靴なのだが、そこに「ドンガラガッシャン。ゴポポポポポ。ドプン」カンフー映画でぶちのめされたかのように、感染症予防対策向け消毒液のボトル、半透明のそれがもんどりうって転がりこみ、三和土は赤い絨毯、赤い靴、半透明のボトル。そういう座組みに変化した。
これまで諫言してきたお父さんも、流石にこれには怒るのだが、子供が萎縮しない程度に叱り、転がった消毒液を拾い上げ「あきこ(仮名)が今度頑張って温泉入ったらね。帰るよ」と、我が子を諭すのだが、彼女は腰に両手を添え、アーム・アキンボの構えでアイスクリーム自動販売機に近づき、「ねえ!」を続ける。
察するに女児はアイスを食べたいが、温泉施設に来てぐずり、入浴を拒む。しかしアイスは食べたい。風呂に入ってないため父はダメという。ねだる。筋道を通すため父はアイスは無しと諭す。
要するに、彼女はピンクで身なりは整っているが、アイスを口にしなければ温泉という本質を欠く。これでは整わない。まあ、実際には風呂は入ってないんだが、それでもアイスは欲しい。よって「買えボケ。バカ」と、乱れた。老婆心ながら、あきこさん、お風呂に入ってなければそれはちょっと……。
「ねえ! 怒ってるんだからね!」と、口にすると彼女は自分の靴を掴み、父へ投げつける。消毒液ボトルの次は、小さなピンキースニーカーがコロコロっと私の近くに転がり込んでくる。節目の私の視界には、赤い絨毯、赤い靴、ピンキースニーカーという座組みに。
自分の愚足と小さなスニーカーを見比べ「人はこんなにも大きくなるのか」と、感慨に耽り始めるなり、父親は私に「すみません」と、詫びてくる。
「全然いいです。全然いいです」と、私は素早く連呼。こんなものは可愛いもの。早朝自宅に訪れた甥っ子は、就寝中の私にスペイン風尻餅を脈略なくかまし、布団の上からマウンティングとパンチングを気が済むまで見舞う、理不尽な暴力のそれに比べたら、靴が転がって来るなど可愛いもの。
しかし、このお父さん、本当に出来た人で。分別の良心とでもいうか、自身への当たり散らしはいいが、他への当たり散らしは駄目というか、「完璧だ。完璧な」駄々に淡々と応じる姿に感心する。
にしてもお手本のような見事な駄々。ごね晒しを目にし、私は嬉しかった。であるが、ここで笑みを見せてはならない。子どもが激昂しかねず、諭す難易度は跳ね上がる。そろそろ潮時と、私は靴を履き、口手に急ぎ上り框を後にする。すると、背後から「パパはここにお泊まりね!」 軟禁の命が発せられ、私は笑い声を押し込め、背を揺らし階段に向かうと、「階段おりてきちゃダメ!」という声が聞こえてくる。十中八九あきこちゃんが悪いのだが、結果はパパに罰。帰宅困難となったお父さんと娘のやり取りに、「ゲラゲラ」と声を上げ、階段を下る。敷かれたカーペットが赤く、差し詰め女優とマネージャーとも見えてくるこのやり取り。身なりは大変小さいのだが、女性というのは小さな頃から既に女性なのだと思い知らされた。
『親は選べないんです』という見出しから始まる書籍『伊福部昭 ゴジラの守護神・日本作曲界の巨匠』は音楽家、大友良英さんのインタービューから始まる。
"ゴジラの音楽だって、それ以前にはなかったわけで。それを伊福部さんが発明した。(中略)ゴジラが現れるときの音楽とかはやっぱり概念の発明に近い"
成る程、確かにそうだ。よしんば『ゴジラ』とつく映画から伊福部 昭の楽曲を抜き、作られたとしても、観る側は伊福部の音色に近いものを探し出すだろう。
伊福部 昭の楽曲を欠いたゴジラ作品を観て育った子供らは、それがスタンダードとなるのだろうが、伊福部 昭の楽曲で育った世代は、その作品を『ゴジラ』として認めるだろうか? 何よりそれは「ゴジラではなくて、他のものでいいのでは?」と、私は判断するだろう。
映画『クローバー フィールド/HAKAISYA』(2008年)の楽曲からも伊福部昭の匂いを感じ取ることが出来るのだが、これは聴く側に「怪獣映画の音楽は伊福部 昭を前提とする」という概念がうえついている故ともいえる。
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