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信じるということの本質

「信じる」という言葉には、何か確固たる真実を前提にしたような響きがあります。疑いようのないものを信じること、裏切られる心配のないものを信じること。そんな「安全でリスクのない信じる」が、僕たちの日常における信じることだと思われがちです。でも、本当にそれが「信じる」という行為の本質なのでしょうか?

疑いを乗り越えるということ

信じることは、疑いを持たないことではありません。むしろ、疑いを乗り越えるプロセスそのものが「信じる」という行為を本物にするのではないかと僕は思います。

たとえば、人を信じるとき、その人のすべてを知ってから信じるわけではありません。「疑う余地がないから信じる」というのは、ただその事実を「知っている」に過ぎないのではないでしょうか。それでは、僕たちが持つ「信じる」という行為の力が試される余地がありません。疑いを抱えながらも、その不確実さを引き受けることで信じるという行為が成立するのだと思います。

裏切られてもいいと覚悟する

信じることは、裏切られないという確信に基づくものではありません。裏切られる可能性をゼロにするのではなく、「たとえ裏切られてもいい」と思い切ること。それこそが信じることの真髄ではないかと僕は考えています。

もし裏切りの可能性を排除して、「絶対に裏切らない」とわかって信じるとすれば、それは「信じる」ことではなく「利用する」ことに近いのではないでしょうか。リスクがあるからこそ、信じることには価値が生まれるのだと思います。

信じることとは、何に騙されるかを選ぶこと

この世界には絶対的な真実なんて存在しないのかもしれません。あるのは、それぞれの人の解釈だけです。そんな不確実な世界の中で、「信じる」とは何か。それは、「何に騙されるかを自分で選ぶ」ことだと僕は考えています。

信じる対象を選ぶとき、僕たちはその対象に「騙されてもいい」とどこかで覚悟しているのではないでしょうか。そして、その覚悟の先に楽しさや幸福感があるのなら、それこそが信じることの高次の意味だと思います。

「真実」と「解釈」の違い

この世界にあるのは個々人の解釈だけです。絶対的な真実を求めて信じようとするなら、僕たちはその真実に縛られてしまうかもしれません。しかし、自分の解釈を通じて何を信じるかを選び、その信じる対象を通して自分自身の解釈を豊かにしていく。そのプロセスこそが「信じる」という行為の本質なのではないでしょうか。

おわりに

「信じることは疑いを持たないことではない。疑いを乗り越えることだ。」
「信じることは裏切らないと確信することではない。裏切られてもいいと思い切ることだ。」
これらの言葉は、「信じる」という行為が単なる安全な選択ではなく、ある種のリスクを受け入れる勇気の表れであることを教えてくれるのだと思います。

信じるという行為は、真実にたどり着くための道ではありません。それはむしろ、自分の解釈を形作り、自分がどう生きるかを選ぶための決断なのです。だからこそ、信じることには価値があり、信じる対象を選ぶことには慎重でありながらも大胆である必要があります。

あなたは何を信じ、何に騙されることを選びますか?

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