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選択とは「何を得るか」ではなく【何を捨てるか】
人生は“捨て”の連続
時に私たちは「何を得るか」を基準として選択をすることが多い。これは当然のことだ。何を得られるかを考えるのは、未来への希望や期待が基盤となっているからだ。しかし、選択という行為が「捨てること」を同時に意味していることに、私たちはどれほど自覚的だろうか。
選択には必ず「捨て」が伴う。たとえば、大学の進学先を選ぶとき、A大学に行くことを決めるというのは、同時にB大学やC大学を捨てることを意味する。仕事を選ぶとき、A社に入社するということは、他の選択肢を諦めることだ。このように、選択という行為の裏側には「捨象性」という側面がある。つまり、選んだことに焦点を当てるあまり、選ばなかったことを意識に上げることができないのだ。
捨象性を見落とすリスク
「人生は選択の連続」と言われる。しかし、「人生は捨ての連続」と言い換えたら、どうだろうか。少しニヒリスティックに感じられるかもしれないが、この視点を持つことは、人生において重要な意味を持つ。
私たちは日々、選択を積み重ねている。その選択の一つひとつが私たちの人生を形作っていく。しかし、その選択を通じて何を捨てたのか、私たちは往々にして意識できていない。たとえば、キャリアの選択や恋愛の決断、さらには些細な日常の選択においても、捨てたものは経験されないため、振り返ることも反省することもできない。
この「捨てたものに対する自覚の欠如」こそが、選択の中で最大のリスクではないだろうか。
得たものだけで満足できるか
私たちは「何を得るか」だけで選択の価値を測ることが多い。しかし、得たものだけを評価軸にするのは、非常に偏った見方だと言えるだろう。得たものの陰には、必ず捨てたものがある。その捨てたものが、自分の人生においてどのような可能性を秘めていたのかを問うことはできない。なぜなら、それを体験することはもう叶わないからだ。
だからこそ、選択の瞬間に「捨てたものに見合うか」を自分に問うことが重要だ。この問いの答えは、実は重要ではない。なぜなら、答えは未来にならなければわからないからだ。しかし、この問いを持つことで、選択そのものがより自覚的になり、価値のあるものとなる。
人生を形作る選択の意味
人生を振り返るとき、私たちは得たものを中心に語る。それは当然のことだ。経験したものしか語れないのだから。しかし、得たものが現在の自分を形作っている一方で、捨てたものがどのような意味を持っていたのかを考えることも、また私たちの人生を深める視点となるだろう。
「何を得るか」を問うだけでなく、「何を捨てるか」もまた選択の重要な軸である。この視点を持つことで、選択の価値がより豊かになり、結果として人生そのものを深く味わうことができるのではないだろうか。