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名前は言わない、私は

苦しい時。

それに名前をつけることができる場合もある。

名前をつけた方が他人がイメージしやすい。

私が苦しい時、その時に起きていることに名前をつけられるものがある。
あるいは、苦しみが起きている原因に名前をつけられるものがある。

でも、その名前をつけて、自分の苦しみを話すことは好まない。

過去には、信頼できる人に話す時や、自分のことについて話さなければいけない場面でその名前を使ったことがある。

ただ、名前を出した瞬間、
話している相手と自分、苦しみよりも楽しさを感じている時の自分と苦しんでいる時の自分、その間に突然、川が流れ始めたような気持ちになる。

距離は変わらず、姿は見えるのに、
歩けば会えた今までとは、まるで違ってしまう。

分かりやすいとは、すごく大きくて目立つものだから、川の向こうからだと、その分かりやすい名前ばかりがよく見えて、その音ばかりが聞こえて、その人自身はその影に隠れてしまったりする。こちらからも、視界は遮られ、声もよく聞こえなくなる時がある。

一度名前を出しただけで、川は流れ続けるわけじゃなくて、再び名前をあげたり、その属性を示唆するような発言をすることで、水は供給され続け、川は枯れない。

ただ、二度と名前をあげなければ、
二度とイメージしやすい固定名詞で自分のことを話さなければ、水は少しずつ減り、川は枯れてゆく。(もちろん、相手の中で名前が小さくなってゆけばの話)

また、歩けば会える存在になる。
その代わりのように、楽しんでいる自分と苦しんでいる自分の間に流れる川の水は増え、流れが強くなる。

溢れそうなほどの水が自らの中を勢いよく流れる。

その水は、自分の持つ小さな種を、大きな木に、花に、実に、育ててくれるだろうか。
あるいは、強すぎる川の流れは自分自身をも巻き込んでしまうだろうか。

どうなるかは分からない。

どちらかなら、私は、自分自身の中での賭けを選ぶ。

他者との間に川が流れるとして、これから本当に壊れない橋は作れるのか、泳いでも途中で溺れてしまうかもしれない、流されない船がつくれるのか。

すぐ出来るかもしれないし、時間をかけても上手くいかず、枯れるには長すぎる時間が必要なほどの巨大な川になっているかもしれない。

会えた存在に、会えなくなるのはとても寂しい。その可能性がある方を選ぶくらいなら、たとえ一人きりでひっそりと溺れてしまうかもしれなくても、会えた人には会えるままでいたい、と思う。

私は、多分とても寂しがりやだけど、臆病だから。

頑丈な船や橋が最初から沢山あれば、泳ぎを教えてくれるコーチがいれば、
他人に自分のことを分かりやすく伝えようとすることを怖がらないだろうし、
自分の中の川で一人きりで溺れることもなく、
川があることによって他者と会えなくなることもないだろう。

自らの川の中で溺れながら生きているから、でも、その苦しみは後世にも必要なものたとは全く思わないから、

どうにかして橋や船を、コーチを、未来に残したい、私の中に溢れる水を得て種が育って、それらの片鱗だけでも残せないだろうか。
その気持ちで、生きている。


#エッセイ
#コラム





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