
BOOWYにまつわる噂のエトセトラ Vol.11 ~ ベルリンレコーディングの発案者~
「BOOWY」のベルリンレコーディングは故佐久間正英氏がプロデュースを断るための方便から生まれた?!
先日開催されたトークイベント「BOOWY 40th Anniversary/BOOWY HUNT Special Event」をオンライン配信で拝見した。
このイベントはBOOWY結成40周年を記念し、メンバーの高橋氏と東芝EMI(現ユニバーサル)のBOOWY担当ディレクターだった子安氏をゲストに迎え、先日発売されたBOOWY関連商品を視聴しながら当時の思い出を語るという、所謂販促イベント。(なのに緊急事態宣言延長により何度も日程変更を余儀なくされたという…。)
謳い文句は「結成40周年の今だから語れることも多い」。
…まぁ、どうせこれまで散々語り尽くされたことを話すんだろうなぁと予想しながらも(そしてその予想は概ね的中していたことを遺憾ながら記しておく)、子安氏もゲストに来ていただけるとのことだし、2千円くらいならお布施してもいいかなと考えて拝見した。
いいカモであることは自覚している。でも「倉庫で発見されました!くまなく倉庫を探したのでこれが最後です!」商法を繰り返されるよりは、個人的には全然マシ。普通に売ってくれれば嬉しいのに、なんで「もうない」「これが最後」と煽って、後で「見つかりました」と言い訳して微妙なマイナーチェンジ商品を売るの…。それが大発見のお宝ならともかくとして…。
売るなとは言わない。むしろ売ってくれ。その上で買うか買わないかはファンの判断なので。売り方というか、ファンの気持ちにつけ込んだような宣伝文句やら何やらがいつもちょっとなぁと思ってしまう。
さて。
そのイベント配信だが、何やかんや(心の中では)言いつつも、関係者の口から直接当時の想い出話を聞ける貴重な機会。リアルタイム配信では機材トラブルで途中で映像が途切れるなどのトラブルがあったようだが、見逃し配信派(平日の昼間にリアルタイムで見れるかー!)の私には無問題。最後まで楽しんで視聴させていただいた。
積もる話は尽きないようで、予定時間を大幅に超過したこの配信、ゲストが子安氏だからか、東芝EMIに移籍して初めてのアルバム「BOOWY」のベルリンレコーディングのエピソードから始まった。
それを見ていて、ふと思い出した。
昔、このベルリンレコーディングの発案者は誰か調べたことがあったことを。
来年のBOOWYレコードデビュー40周年を記念して、そろそろ解散ネタに手を付けようかと重い腰を上げ始めたところだが、なにせ資料が膨大な量になるので、いつになったら書けるのか自分でもわからず…。
なので、思い出しついでにベルリンレコーディングについて書いてみる。
【発案者は誰?】
レコード会社から契約を切られたり、メンバーが脱退したりして色々あったBOOWYが飛躍するきっかけとなったのは、ユイ音楽工房と契約し、レコード会社も東芝EMIに移籍したことだろう。
移籍後初のアルバム「BOOWY」は、1985年6月21日に発売された。
この3rdアルバム「BOOWY」はベルリンのハンザトン・スタジオでレコーディングされたもの。
ベルリンでのレコーディングは故佐久間正英氏がBOOWYというバンドのプロデュースを断るための苦肉の策として佐久間氏から提案されたと、関係者の皆さんが笑い話として今でもよく語っている。
この前の配信イベントでも、
BOOWYのプロデューサーをどうしようかという話になって、布袋氏が佐久間正英氏にお願いしたいと言った。
東芝の会議室に関係者を集め、佐久間氏を呼んだ。
佐久間氏はBOOWYのメンバーを見て「怖いからやだ」「断りたい」と思った。
佐久間氏は「『ベルリンでレコーディングをしなければ僕はできない』と言えば、多分東芝はイエスと言ってくれないだろう」と思い、断るためにベルリンでのレコーディングを条件に出した。
そうしたら子安氏が即「いいですね!」と応じ、裏でちょちょっと話して「ベルリンOKです」と言ったら、佐久間氏は「えぇっ!」って驚いた。
子安氏は言ってしまった手前、どうやってベルリンレコーディングを成立させようか考えた。
ユイ音楽工房のプロデューサーからは「おい、制作費あんまりかけられねぇぞ!何とか安くあげろ!」とプレッシャーをかけられた。
調べてみたら、ベルリンの状況が意外と安かった。宿泊(ホテル)代は別だったが、スタジオ代とエンジニア代込みで凄い安かった。尚且つそれを1日だと単価いくらで、1週間ぶっ続けにすると更に安くなり、2週間にすると更に安くなるというシステムがあり、これならいけるかもしれないということで、飛行機代込みでも日本でやるより安くできた。
プロデューサー候補は実は佐久間氏以外にも複数いたが、メンバーと合うかという問題もあるので、候補者は順番にメンバーと顔合わせをしていく予定だった。しかし、最初に呼んだ佐久間氏で決定してしまった。
佐久間氏のプロデュース術は押しつけるのではなく、メンバーの力をどれだけ引き出すか、どれだけ上げていくかというタイプだった。
といったようなことを高橋氏と子安氏は笑いながら話していた。
また、このエピソードを披露している時に、MCの方が「タワーレコードの対談でも仰っていましたよね」と返していたように、この時の配信に限らず、いつでもどこでも皆さん同じ内容を話している。
だから、ベルリンレコーディングの発案者が佐久間氏である事は誰も疑いを挟む余地はない。
そう、思っていた。
佐久間氏がお亡くなりになる少し前にNHKで放送された、佐久間氏の特番を観るまでは。
この番組では、佐久間氏が携わったミュージシャン達がたくさん紹介され、佐久間氏と彼らとのエピソードが披露されていた。
その中でBOOWYについても話が及び、佐久間氏が初めてBOOWYに関わった3rdアルバム「BOOWY」にスポットが当たったのだ。
このインタビューで佐久間氏は、BOOWYというバンドは「見た目が怖かった」と、だからプロデュースを断ろうとしたという笑い話に繋がる、いつもお決まりの前振りの台詞を口にした。その直後、画面が布袋氏のインタビューに切り替わり、布袋氏はこう話したのだ。
どこでレコーディングしたい?って言われた時に、僕はデビッド・ボウイの影響が強かったので、『ドイツのハンザトンスタジオでやるのが夢だ』って言ったら「じゃあ行こうよ」っていう事で、寒いベルリンにご一緒していただいて、非常に実験的な部分もあったし、アバンギャルドとポップの融合性、そこの部分がベルリンっていう空気をはらむ事によって、あまり装飾過多にならない極太のロックンロールとポップが結びついた (※1)
……へ?
あれ?ベルリンレコーディングは佐久間氏の発案ではなかったっけ?
佐久間氏を3rdアルバムのプロデューサーに迎えたのは、プラスチックスが好きだった布袋氏の希望だったということは有名な話だ。しかし、ベルリンレコーディングは佐久間氏がこう言えばプロデュースを断ることができるだろうと思って言った言葉では?
布袋氏の言葉では、布袋氏がベルリンレコーディングを希望して、それに佐久間氏が賛同してベルリンまでわざわざ同行して貰った、という風に聞こえる。本当は佐久間氏ではなく布袋氏がベルリンを提案したのだろうか?と、この時にはじめて疑問に思ったのだ。
なぜならこの番組は天下のNHKの番組で、しかも、がんの闘病を告白した佐久間氏のこれまでの功績を称えるための特番のようなもの。なのに、布袋氏がベルリンレコーディングを提案し、それによってBOOWYが成功した印象を視聴者へ与える構成となっている。この類いの番組は出演者も番組の意図を汲んで、佐久間氏がBOOWYに与えた影響やそれに対する感謝を語るのが普通ではなかろうか。なのに布袋氏の言い方では、布袋氏こそが立役者で佐久間氏はただ布袋氏のアイデアに賛同しただけにすぎないかのような描写となっている。
この番組が放送された翌年に発売された「布袋寅泰ぴあ」のインタビューでも、「佐久間(正英)さんとの初めてのレコーディングで、どこ行きたい?っていうから、ベルリンって答えたんだ」と、布袋氏がベルリンレコーディング」を提案したと語っている。
「ベルリンレコーディングが佐久間氏の発案」というのは、私の勘違いだったのだろうか。
そう疑問に思ったものの、その時はスルーした。蟠りをほんの少しだけ残したまま。
その想いを思い出したのは、これから2年半後、2016年7月15日に放送された「アナザースカイ」という番組を観た時のことだ。
この番組は布袋氏が35周年を機にBOOWY想い出の地ベルリンを訪れるという企画。何かBOOWYのエピソードが聞けるかな?と思い、心躍らせながら見ていたその時。
番組ロケでベルリンのハンザトン・スタジオを訪れた布袋氏は、こう話したのだ。
10代の時に聴いデヴィッド・ボウイの「ベルリン三部作」と言われる作品にすごく影響を受けていて、「海外レコーディングをしよう」というアイデアがプロデューサーから挙がった時に「ベルリン」という声を聞いて、「行く!行く!行く!」。とにかくベルリンのハンザ・トン・スタジオに行くのが僕にとっては夢のスタジオだった (※2)
……え?
やっぱりベルリンレコーディングは佐久間氏の発案で布袋氏をはじめとするメンバーは乗っかっただけなの?
そうだよねぇ?だってみんなそう言ってるもの。前に布袋氏が言っていたのはちょっとした言い間違いかなにかだったのかも。
…と思っていたら、また暫く経って布袋氏がベルリンレコーディングは自分の発案によるものだという趣旨の発言をしているのを耳にしたのだ。
どっちやねん。
さすがに、同じ人間が言っていることがこうも違うと不思議に思う。
同じ発言者が正反対のことを言っている以上、どちらかが「嘘」なわけで…。
だが、もしかしたらそれは自分の記憶違い、勘違いである可能性もある。
なので、自分の記憶が正しいかどうかを疑って、まずは過去の録画を見返してみたのだ。
で、見返してみたのだが、やはり上記の通りで間違いない。佐久間氏の特番では、布袋氏は「どこでやりたいかと聞かれたので、僕がハンザ・トン・スタジオを希望したら、『じゃあ、行こうよ』となった」と言っている。
しかし、アナザースカイで、佐久間氏からベルリンを提案されて飛びついたと言ってるのも布袋氏だ。
どちらの話をしている時も、布袋氏の挙動も態度も口調も不審な点は見られず、嘘をついているようには到底見えなかった。まさに「息を吐くように」。
発言と発言の間に相当な時間が経過しているのであれば、加齢による記憶力の低下が原因だとも考えられる。しかしこの発言と発言の間はたった数年。いくら50歳を過ぎての発言とはいえ、たかが数年でそこまで記憶力は劣化するものなのだろうか。
いやいや、そもそもその時々で言ってることが違うのだからそれ以前の問題だ。
何故布袋氏は言っていることがこんなにも違うのだろう?
ベルリンレコーディングには何かウラがあるのだろうか。
不思議に思って、もう一度関係者諸氏の話をおさらいしてみた。
あらためて調べてみたところ、このエピソードに関する関係者の発言は沢山残されている。そのため、ここで取り上げた証言の数々は一例にすぎない。表現はその時々で多少異なるが趣旨は同じ(但し布袋氏を除く)。
まずは当事者の一人である佐久間正英氏の証言。
これは何回も話してるけど、プロデュースの話が来て、初めて打ち合わせに行った時に、「怖いなあ、イヤだなあ」と思ったんですよ(笑)。見た目とか、態度とかね。でも、ドラムの高橋まことだけは古い知り合いだったから、「あ、まこっちゃんがいるんだ」って気づいて、そこで救われた気持ちになった(笑)。覚えてるのは、打ち合わせした時に「どういう音にしたいのか?」という話をしたら、たぶん布袋くんだったと思うけど、「ロックにしたい」って言ったんですよ。ロックバンドに「ロックにしたい」と言われたのは初めてで、「それはどういう意味だろう?」って考えたんですね。そこでいろいろ考えて、当時の録音環境やエンジニアを含めて、日本じゃ無理だなと思って、ベルリンに行くことにしたんです。実はもう一つ理由があって、これは笑い話になってるんだけど、怖いから断りたいという気持ちもあって、「ベルリンに行くならやります」という言い方をしたら、その時のディレクターがすぐに「行きましょう!」という返事をくれて、やることになったという(笑)。それでベルリンで、前の年に根津甚八さんのレコーディングで行った時に知り合った、マイケル・ツィマリングと一緒にやることになった。(※3)
うん。佐久間氏が提案したと言っている。当時のディレクターがすぐに承諾して実現したという点もこの前の配信イベントでの話と同じ。
BOOWYが解散して約3年後の1991年のインタビューでも、佐久間氏はこう答えている。
例えば、BOOWYだと、最初話が来て、音や写真なんかを見た時に、ある種、陳腐な感じがしたんですよ。むしろ、この5、6年間前のマッチとどう違うのかなって(笑)。それで、断る手段として、ベルリンに行こう、って言ったんですよ。そしたら通っちゃった。(※4)
やはり、「断るためにベルリンに行こうと言った」と語っている。
では、当時のディレクターである子安氏はどうだろうか。
この前の配信イベントではっきり「ベルリンレコーディングは佐久間氏がプロデュースを断るために言い出したことで、その要求に子安氏が即OK出した」と話しているが、他の機会ではどのように話していたのか。
佐久間さんは、半分断るつもりだったみたいで(苦笑)。それで「ベルリンでレコーディングするんだったら、やってもいいんだけど……」みたいなムチャ振りをされて。まぁ、そういうことを言えばレコード会社も断るだろうと思ったそうなんですよ。そこで思わず膝を叩いて「それは最高だ!」と答えてしまって(笑)。(※5)
配信イベント及び佐久間氏と全く同じ趣旨の発言である。佐久間氏の提案を子安氏が賛成したと。
他の関係者はどうだろうか?
佐久間氏と同じベーシストで、ソロになってからも関係が続いたという松井氏は、自伝の中で「誰がベルリンレコーディングを発案したか」ということには触れていない。ただ、プロデューサーに佐久間氏がなったのは、「布袋君の発案だったと思う」と述べるのみ。(※6)
一方でBOOWYライターの一人としてBOOWYに深く関わっていた佐伯明氏はこう語っている。(※7)
僕が高橋まことさんに取材した内容によれば、「布袋が、プラスチックスが好きだったことで、佐久間さんに依頼した。で、佐久間さんからの条件が、“ハンザでレコーディングをすること”だった。ハンザはデヴィッド・ボウイの“ベルリン3部作”を産んだ場所だったから、布袋はすぐに承諾。佐久間さんは、根津甚八さん(故人)のレコーディングでハンザを使っていたんだな。そこにアシスタント・エンジニアとして仕事をしていたマイケル・ツィマリングと相性がよかったみたいなんだ」という経緯である。
「高橋氏から聞いた」とのことで自身の体験談ではないが、こちらも佐久間氏がBOOWYプロデューの条件としてベルリンレコーディンを提案したと証言している。
佐伯氏が高橋氏に取材した時というのが恐らくこれ。
2001.11.■
BOOWYのVIDEO&DVD作品『1224』リリースに向けて、高橋まこと氏にインタヴュー。
まことさんとは9月に『LAST GIGS』の試写会で久しぶりにお会いして以来だ。
(中略)
- ベルリンのハンザ・トン・スタジオに行くって話は、(アルバム『BOOWY』のプロデューサーだった)佐久間正英さんが出したんですか?それともBOOWY側から?
高橋:"アルバム作るんでレコーディングしよう”ってなったんだけど、"どうする?"っつったら"外国がいいだろう"とかなんとか周りではワラワラと声が聞こえてきて。
俺は普通に、まともなスタジオでレコーディングできるならどこでもいいやって思ってたら、プロデューサーがつくって話になったのね。
そしたら布袋(寅泰)がさ、"じゃあ佐久間さんにお願いしようよ"っていう一言で。
"佐久間さんはプラスティックスじゃん"とか行ってたけど、俺は"佐久間さんといえば、四人囃子じゃん"とか言って。
布袋的には、プラスティックスはベルリンだっていう。
- 世代的にはそうですね。
高橋:なんか面白そうだから頼んでみようって話になって。
で、初めて会ったときに"レコーディングはベルリンに"って佐久間さんがベルリンて言っちゃった。
なんでかっつうと、その前に根津甚八のレコーディングで行ってんだよ(笑)。
根津さんのレコーディングでハンザに行ってて、ハンザにマイケルっていう一所懸命仕事する若いエンジニアがいるからって。
デヴィッド・ボウイとやったジジイのエンジニアは暇がなさそうだからダメだけど、若いやつとスタジオはあるからやろうって話になって。
あとはたぶん、日本よりは安いとか、ロケができるとか、写真を撮れるとか、まだ(東西ドイツを隔てる)壁もあって。そういうイメージもありつつの。
で、ハンザはデヴィッド・ボウイもやってるし、有名なところだからさぁ。
布袋はデヴィッド・ボウイが好きだからね。(※8)
このインタビューを読む限り、佐伯氏は高橋氏の言葉をかなり正確に伝えている。
また、佐久間氏が話を聞いた相手である高橋氏は、この前の配信イベントでも「佐久間氏がプロデュースを断るためにベルリンレコーディングを提案した」と話しているほか、過去何度も同様の発言をしている。
他にも例を挙げよう。
― そんな変革期を経て、次は東芝EMIと契約し、事務所もユイに移籍してアルバム『BOOWY』が誕生する訳ですね。
高橋:ここからレコーディングががらっと変わるの。いままでの2枚のアルバムは何もかもが中途半端なんだよ。でも、ここからは事務所とレコード会社ががっちり線路を引いてくれるようになったから。そこでまずプロデューサーは誰にするって話になったときに、布袋が佐久間(正英)さんに頼みたいっていって声をかけたの。佐久間さんは、最初断ろうと思ってたらしくて、EMIが諦めるのを見越して“じゃあベルリンでレコーディングどうですか?”ってふっかけたら、EMIからまさかのOKが出て(一同笑)。佐久間さんも言った手前引けなくなって『BOOWY』はベルリンでレコーディングしたというね。(※9)
こちらは、新宿ロフトから最後のLAST GIGSまでBOOWYのPAを務めていた森山朝雄氏との対談での一コマ。
高橋氏は自身のイベントやインタビューなどの一人で話すときだけでなく、当時を実際に経験しているスタッフなどの関係者との対談でもいつも「ベルリンレコーディングの発案者は佐久間氏」と語っている。そして当時の関係者の誰からもそれに対する反論も疑問もない。
ちなみに、BOOWYがブレイクした(し始めた)タイミングでARENA37℃やB-PASSに連載されていた「BOOWY STORY」でも、「ベルリンレコーディングの発案者は佐久間氏」と書かれている。
「BOOWY STORY」は事実に基づくとはいえ、多分に脚色された内容であるので、無条件で全てを信じるわけにはいかないが、その「脚色」はBOOWYのメンバーをよりよく見せようとするもの、又は、これまでの活動履歴をよりドラマチックにしようとするもの。脚色の目的が「そう」である以上、もしも実は布袋氏が発案者であるのであれば、その通りに書かないのはいかにも不自然。部外者である佐久間氏より布袋氏発案とした方が、メンバーである布袋氏凄いぜアピールに繋がり、連載の目的に適っているのだから。むしろ佐久間氏が部外者であるが故に、下手に嘘をつけなかったのではなかろうか。
これらのことから、「ベルリンレコーディングの発案者が佐久間氏」というのは恐らく事実なのだと思うのだが……一番の問題は布袋氏、である。
布袋氏のベルリンレコーディング発案者に関する近年の発言はブレブレである。では、もっと昔はどうであったか。
まずは、布袋氏の自伝「秘密」である。
何度かミーティングを重ねるうちに、俺たちは糟谷さんのどこからどこまでが本気でジョークかわからないような独特の言い回しや、人間味溢れる人柄に惚れていった。
気持ちも新たに、3枚目のアルバムの話が持ち上がった。「次のアルバムはメンバーがそれぞれ自分のやるべきことに集中できるように、サウンド・プロデューサーを立ててはどうだろう?」と、糟谷さんは佐久間正英さんを推薦した。彼の在籍したプラスティックスは大好きだったし、遡れば四人囃子というバンドで伝説を打ち立てた人物だ。信頼できる。俺たちは賛成した。
「次のアルバムのレコーディング、ベルリンってのは、どうですか?」
調子に乗った俺は、こんなことを言っていた。糟谷さんは、そんな大それた構想も軽く承諾してしまうのである。
「ベルリンか、いいねぇ。じゃあ、みんなで行こうか」
その返事をもらった瞬間、俺たちは顔を見合わせたものである。
「だって俺たちが住んでるの、風呂なしのオンボロアパートだぜ。そのバンドがベルリンでレコ-ディング?笑っちゃうじゃないかよ!」
俺が「ベルリン」と言い出したのは理由がある。BOOWYというバンドには、良くも悪くも大衆に対して強力にアピールできる氷室京介というヴォーカリストがいた。しかし、さらにシーンに衝撃を与えるためにはヴォーカルを包み込むようなサウンドともに、ずっしりと重く響くビートが絶対的に必要だと感じていたのである。
「なにかとポップになりがちなBOOWYに重厚さがプラスされれば…」
さらに、少年時代から敬愛してやまないデヴィッド・ボウイが「LOW」や「HEROES」などの重厚な作品を、ベルリンで作り上げていたことも大きな理由の一つだった。(※10 P142-143)
……。
……なんだか、あまりにも自画自賛しすぎではありませんかね?
BOOWYがレコーディングのためベルリンに旅立ったのは、1985年2月末。1962年2月1日生まれの布袋氏はこの時僅か22~23歳。まだ世に認められていないこんな若造が、後に伝説的バンドとなるBOOWYのターンニングポイントとなる「ベルリンレコーディング」を提案。しかもこの頃からバンド全体のサウンドメイクをきっちり考えていて、氷室氏のヴォーカルを引き立てるためには何が必要かを認識し、BOOWYが世に出て行くためにはどうすればいいかも正確に把握していたと。BOOWYの将来をきっちり見据えていたという。
そして「糟谷さん」は、この時点では何の実績もなかった布袋氏の提案を一笑に付すことなく、即同意し、実現に向けて動いたと。
うわぁ、嘘くさー。
これって要するに、この頃から布袋氏の才能はメンバーから一人だけ抜きんでいて、バンドのイニシアチブも握っていたと言いたいだけでは?
バンドにとってあらゆる面でターニングポイントとなった「BOOWY」のベルリンレコーディング実現は、布袋氏と布袋氏の才能をこの時点で既に見いだしていた「糟谷さん」の功績で、伝説的バンドへと成長していくBOOWYの成功のきっかけはこの2人だとアピールしてるだけのように見える。「BOOWYはワシらが育てた」と。
この前の配信イベントでは、プロデューサーに佐久間氏が起用されたのは布袋氏の希望だが、ベルリンレコーディングは「佐久間氏の提案」で「ディレクターの子安氏」が賛意を即座に示し、「事務所のプロデューサー」は経費の心配をするなど、むしろ懐疑的・否定的な態度を取っていたとのこと。
そして、佐久間氏のプロデュースはメンバーの力を引き上げ、メンバーは佐久間氏と出会ったことによって、大きく成長したと語っていた。
一方で、布袋氏の自伝では、「布袋氏の提案」であるベルリンレコーディングを「糟谷さん」が諸手を挙げて賛成し、彼の尽力で実現させたと書いている。
そもそも自伝では、「メンバーはそれぞれ自分のやるべきことに集中できるように、サウンドプロデューサーを立ててはどうか」と布袋氏がバンド全体のことを考えて提案したため、「糟谷さん」がプロデュ-サーに佐久間氏を推薦し、起用されたという描写があるだけ。佐久間氏は、ベルリンレコーディングを提案していないどころか、その決定に一切関わっていない設定になっている。
布袋氏の自伝では、そこ以外に佐久間氏について触れた箇所はない。(布袋氏がクマ原田氏と知り合うきっかけについて触れた際に名前が出て来た程度)。佐久間氏がBOOWYに果たした役割についてはスルー。他のメンバーやディレクターが口々に佐久間氏がBOOWYへ果たした功績と感謝を述べているのと非常に対照的。(メンバーの中で氷室氏のみ自伝を書いておらず、トークイベント等への出演もないが、氷室氏はインタビューやライブのMCなど折に触れて佐久間氏への感謝を述べているし、闘病中の佐久間氏へお見舞いの花を贈ったりしている(佐久間氏がTwitterに花の写真をアップしていた)。)
布袋氏の自伝に書かれているのは「俺が○○をやりたいと言った。みんな俺に賛成してくれた。そしてそれは成功した」というパターンが多い。布袋氏がBOOWYはどうあるべきかと将来像まで見据えて出してきたアイデアが次々と当たったから、BOOWYはあんなに支持を集めるようになったと暗に言っている。
BOOWY後期のインタビューでは、BOOWY結成当初は「氷室氏にぶら下がってる感じで推進力ではなかった」と自己評価を下していた(※11)が、自伝では、BOOWYは最初から最後まで布袋氏に決定権があったかようにな印象を読者に与える書き方になっている。
さらに、ユイ音楽工房にBOOWYが移籍してきてからのBOOWYが成功したのは、布袋氏のアイデアとともに、それを実現させた「糟谷さん」の力だと主張しているかのようだ。
もしも私がBOOWYのことを何も知らず、この布袋氏の自伝だけを読んだのであれば、BOOWYは布袋氏のワンマンバンドだときっと誤解することだろう。実際は違うのに。
しかも、布袋氏の自伝に出て来た「糟谷さん」という御方は、BOOWYの「事務所のプロデューサー」かつ、BOOWYが解散した際に、布袋氏と松井氏を引き連れてユイ音楽工房から独立した人物。布袋氏がソロになった時から渡英するまで長らく布袋氏の事務所社長を務めていた。つまり布袋氏の腹心中の腹心のスタッフ。布袋氏の身内とも言うべき存在。
そんな糟谷氏が、佐久間氏を推薦し、布袋氏が希望したベルリンレコーディングをも実現させた功労者と自伝では描写されている。この前の配信イベントでは、「制作費あんまりかけられねぇぞ!」と言ってむしろ否定的態度であったと言われていたのに。
余計に胡散くさー。
誤解していただきたくないのだが、私はBOOWY時代に布袋氏が作った曲達や布袋氏が行なったというBOOWY曲のアレンジは大好きだし、布袋氏が当時BOOWYの楽曲に果たした役割は、本当に素晴らしいものだと思っている。それを差し引いても、布袋氏がこの頃からそこまで深く考えてBOOWYをやっていたとは到底思えないのだ。
佐久間氏も「どういう音にしたいのか?」と初顔合わせの時に訊いたらロックバンドなのに「ロックにしたい」という漠然とした回答を返してきて困惑したと言っているし。本当に布袋氏が自伝に書いたとおりのBOOWYのヴィジョンとサウンドメイクを当時から思い描いていたとしたら、それこそ自伝の言葉どおりに詳細かつ具体的に佐久間氏へ伝えるはず。
それに、基本的に布袋氏は自分のギターが一番の人。自分のギターや作った曲を引き立てるためにヴォーカルがあると考えている人だと常々感じている。
BOOWY解散後に布袋氏と組むことになる吉川晃司氏は、布袋氏のことを「ヴォーカリストを蹴っ飛ばしてでも弾くようなギタリスト」(COMPLEXで実際に組んでみた後の感想は、「蹴飛ばすどころか石投げながらギター弾くような奴だった」にランクアップ(?)し、2011年の再始動の後のインタビューでは「歌を潰しにくるギタリスト」と話していた)と評していた。
後に布袋氏自身も「俺はヒムロックを引き立てるために弾いてるわけじゃない」と言い放ち、ギターはヴォーカルにケンカを売ってこそ的な発言もよくしていた。さらに氷室氏が歌うが故に売れ線になってしまう「俺の曲」に対する苛立ちを口にしていた布袋氏が、いくら世に認められる前の話とは言え、ヴォーカルを包み込むようなサウンドでシーンに衝撃を与えようと考えていたとは俄には考えにくい。ギターサウンドで衝撃を与えようと考えていたのならまだしも。
氷室氏も2014年のインタビューで「『歌あってのバンドなのでいつも演奏するときは歌のことを…』なんてメンバーは言っていたけど、俺からするとオケを録るときに仮歌を歌ったことなんて一度もない。彼らはクリックに対して、自分らの表現をするわけで」と語っていたし。
なので、やはりこれは布袋氏による後付けの理由ではないかと思うのだ。
これまで色々な噂を調べていく中で、布袋氏の言動を見聞きしてきたが、基本的にこの御方は、好きか嫌いか、やりたいかやりたくないか、プラス打算と利己でまず動き、その後に後出しでそれっぽい理由や言い訳を持ってくる人だと考えている。実物よりも大きく見せようとする(だけど本人の自己評価は限りなく高く、それでも自分は世間から過小評価されていると思っている)自己承認欲求の塊的な一面があると色んな瞬間に感じる。
そうは感じていても、ベルリンレコーディングが「布袋氏の発案ではない」と簡単に決めつけるわけにはいかない理由が一つある。
それは、高橋氏が書いた自伝「スネア」の一文。
高橋氏は自伝「スネア」にこう書いた。
1985年の初頭から、サード・アルバム『BOOWY』のプリプロが始まった。
プロデュースには、四人囃子やプラスチックスで知られる佐久間正英さんを迎えた。プロデューサーの候補は他にも何人かいたが、プラスチックスのファンだった布袋が佐久間さんを希望して決まった。
レコーディング場所も、デヴィッド・ボウイ好きな布袋が『ロウ』『ヒーロ-ズ』『ロジャー』というベルリン3部作を録ったハンザトン・スタジオに憧れてそこを指定した。(※12 P118)
これを書いた高橋氏は、BOOWYのドラマーであり、配信イベント等で「ベルリンレコーディングは『佐久間氏』が言い出したことで、佐久間氏はそういえばプロデュースを断れると思って言ったらしい」と話していた高橋氏と同一人物。
高橋氏がインタビューで、或いはトークイベントなどで、「ベルリンレコーディングは『佐久間氏の発案』だ」と語っている姿を目にしたのは、私も正直片手ではきかないくらいある。いつも「佐久間氏の発案」だと語っていた。
なのに何故高橋氏は自伝にだけはこのように書いたのだろう?
もしかしたら、「佐久間氏がプロデュースを断る理由としてベルリンレコーディングを条件に出した」というのはウケ狙いのネタで、実際は布袋氏が発案したという可能性もあるのだろうか?
だがそれにしては、布袋氏の自伝をはじめとした一部の発言を除き、関係者が語るベルリンレコーディング実現の経緯が完全に一致している。
脚色されたネタであれば色々な点で綻びが生じるはず。
例えばBOOWYの始まりである「アマンド前での氷室氏と布袋氏の再会」などは、「アマンド前での再会」にそのものついては関係者の証言は一致しているが、その経緯については、「偶然再会」「月光氏が引き合わせた」「氷室氏が布袋氏に電話して呼び出した」等々、色々食い違っている。それに、いかなる時も「俺凄いぜ」アピールに余念がない布袋氏が「佐久間氏発案」を認めるかのような発言を時折しているのはおかしい。
等々、様々な考えが頭の中を巡かった。
そういう時は、実際に「ベルリンレコーディング」が行なわれた当時はどう語られていたのかを知るべきだろう。そう思って当時の音楽雑誌の記事をあたった。
そうして、ベルリンレコーディング及びロンドンライブについてのメンバーインタビューを見つけた。
「ARENA37℃」1985年6月号に掲載された記事だ。
- ベルリンでのレコーディングは、誰がどんな動機で提案したの?
氷室 考えていたのはずっと前から。俺と布袋で、海外レコーディングしたい、やるんだったらベルリンがいいって言ってた。昔から結構、興味あったからさ。でもまさかできるとは思わなかったから、あまり言わなかったのね。それで、今回のサウンド・プロデュースの佐久間さんに初めて会って、やるか、やらないかって話になった時、どうせならベルリンで、みたいに言われて、みんなその意見に同調して、それでなきゃダメだって、急に態度を変えて(笑)。
布袋 ドイツの音楽にすごく興味あった。佐久間さんは、この前に根津甚八のレコーディングをこのスタジオでやって、ある程度知ってて、ロックの奴も行った方がいいよってかんじでさ。(※13)
ベルリンから帰国したばかりのメンバーは、ベルリンレコーディングは「佐久間氏の発案」だと話している。氷室氏が語り、それに布袋氏が同意・補足すると言う形で。そのうえ、高橋氏が以前佐伯氏に話していたように、佐久間氏がBOOWY前に同スタジオで根津甚八氏のレコーディングをやっていたというエピソードまで同じ。
さらに他の資料をあたっていったところ、BOOWYのLAST GIGS直後に布袋氏がベルリンレコーディングについても語っているインタビューがあった。
- で、いきなり『BOOWY』というのはベルリン録音ですよね。この辺の経緯はどうなんですか。
「ユイの方がすごいリキが入ってきたんですよ。お前らはこんなところでウズウズしてるバンドじゃない、バーンとやろうぜ、みたいな。結構向こうからそんな感じできて、こんなこと生まれて初めてだし『嬉しいー!』みたいなさ(笑)。そうなった途端に、俺がちょっと不安になってきたんですよ」
- へぇー。どうして?
「なんかプロデュース能力ってとこで不安を感じたの。で、プロデューサー立てようかって言い出して。で、ヒムロックとかは『いや、布袋がやればいいじゃないか』って言ったんだけど、俺が『いや、サウンドアドバイザーって形で、録音のこととかよくわからないんで、そういう人がいたら僕は立ててもらいたい』みたいな。で、佐久間さんが上がって。その時、(後藤)次利さんがいいか(清水)信之さんがいいかとかいろいろ上がったんですよ。もちろんすごい初歩的なとこで、 誰がいいみたいな。佐久間さんというのは、僕プラスティックスがすごく好きだったから、彼ならいいんじゃないかなと。そしたら、佐久間さんが『ベルリンに行こう!』って」
- これ、彼が出したアイデアなんだ。
「海外に行くならどこがいいかって話になったの。で、夢物語でさ、今度は海外録音だって話していて。で、ベルリンというのはすごい憧れがあって。それに俺もヒムロックも『アメリカじゃねぇしな』みたいな感じで。ロンドンはなんかモッズの人達が結構行ってるしみたいな。あとはベルリンしかねぇな、と思ってたら、佐久間さんがひょんなことで『ベルリンがいいよ、いいエンジニアもいるし』っつって」
- で、いきなり実現してびっくりしませんでした?
「おおたまげですよ(笑)。初めての海外旅行だから、前の日とか寝れなかったんですよ(笑)」
- (笑)。本当にベルリンなんかに行ってレコードできんのか、みたいな?
「うん、まあ、行っちゃおうか、みたいな。楽器持ってったから、楽器さえあればとりあえずできるだろうって。『ドラムは向こうでレンタルできるんですか?』みたいな初歩的なところでさ(笑)」(※14 P90-91)
こちらでも、布袋氏は佐久間氏が発案者だと証言している。
また、海外レコーディングをやるならどこがいいか氷室氏と以前から話し合っていた中で出てきたという点も、「ARENA37℃」の記事と同じ。
佐伯氏の「音漬日記」に書かれている高橋氏の「次のアルバムのレコーディングは外国がいいという話が周りであがっていた」という証言とも合致すると言えるだろう。
夢のベルリンレコーディングが実現して大はしゃぎの様子が伝わってきて、大変微笑ましい。
これらのことから、少なくとも3rdアルバムのベルリンレコーディングからLAST GIGS直後くらいまでは、布袋氏自身も佐久間氏がベルリンレコーディングの発案者だと認めているということだ。語られている内容も他の関係者の証言と齟齬がない。
ベルリンレコーディングを自伝の通り「布袋氏が発案してBOOWYプロデューサーがその実現に尽力した」ということにして利があるのは、布袋氏及び布袋氏のソロプロジェクトのスタッフとなったBOOWYプロデューサーのみ。
「佐久間氏発案」と証言した他の関係者も嘘を言う可能性はないわけではないが、そんな嘘をついて彼らに何かメリットがあるかと考えると…何も思い浮かばない。
当の佐久間氏は「断りたいというから条件としてベルリンを出した」と証言している。
BOOWYは後に伝説として語られるまで成長していったバンドだ。
それに気をよくして「一目会ったその時から僕はBOOWYの可能性を感じていた」などと適当なことを言って自分の先見性をいくらでも自慢できたはずなのに、佐久間氏は「最初BOOWYの素材を見た時は陳腐な感じがした」「BOOWYのプロデュースを断りたいと思って」と語った。下手をすれば見る目がないと嗤われる可能性もあるのに。
となれば、佐久間氏は正直に当時の自分の気持ちと経緯を語ったと考えるべきだろう。
そこで、関係者の話を総合すると、実際はこんな感じではなかったのかと思う。
BOOWYが移籍するにあたって、事務所もレコード会社もBOOWYにかなり力を入れていた。
それに気をよくしたメンバーは「いずれ海外レコーディングができたらいいね」と夢を語って盛り上がっていた。
そんな夢物語の中で、氷室氏と布袋氏から「やるならベルリンがいい」という話が元々出ていた。
それまでは事務所やレコード会社からはあまり力を入れてもらってなかったので、急激な扱いの変化に布袋氏が怖じ気づき、サウンド・アドバイザー的な人が欲しいと言い出した。
事務所やレコード会社も、これからBOOWYをもっと売っていくにあたって、バンドメンバー以外の視点も必要だと考えて、プロデューサーの候補者を佐久間氏を含めて何人か選び、メンバーへ提示した。
布袋氏が「プラスチックスのファンだから」という理由で「佐久間氏がいい」と言ったため、最初に佐久間氏を東芝EMIの会議室へ呼び出し、メンバーとの顔合わせを行なった。
佐久間氏は、メンバーの「見た目が怖い」し、響くものがないから断りたかった。
プロデュースを断るために、その前に根津甚八氏のレコーディングで使っていた「ベルリンのハンザトンスタジオでのレコーディング」を条件に挙げた。
元々氷室氏と布袋氏で「いつかはベルリンでレコーディングを」と話していたこともあり、メンバーがその気になった。
さらに布袋氏はデヴィッド・ボウイの大ファンであったため、彼のベルリン三部作を生み出した「ハンザトンスタジオ」という条件に大喜びで飛びついた。
ディレクターもその条件に賛成し、経費を計算したら意外と安く上がることが判明したので、ベルリンレコーディングが実現した。
近年の布袋氏は「ベルリンレコーディングは俺発案」と時折言ってはいるが、他の関係者一同及び過去の布袋氏が語るベルリンレコーディング実現の経緯が完全に一致していることから、やはり「ベルリンレコーディングは佐久間氏発案」が事実なのだと思う。
BOOWYが今後どのように語られていくかはわからない。
後世でどのような評価が下されるかも。
もしも、今後もBOOWYが語り継がれていくのなら、ベルリンレコーディング実現の経緯はどのように語られるのだろうか。
今年はBOOWYが新宿ロフトでデビューしてから40週年で、アニバーサリーを祝して今回の配信イベントが開催されたり、布袋氏も40周年ツアーを開催したりもしている。それに関連して、BOOWY通と称する人々がBOOWYについて論じたりもしている。その中には「BOOWYのベルリンレコーディングは布袋氏の提案により実現した。当時の布袋氏の音楽センスと提案力は素晴らしかった」的に布袋氏を褒めそやす方もいらっしゃる。
言うまでもなく「BOOWY通」の方は「通じている」だけで、当事者や関係者であるわけではない。部外者として過ごした当時の経験・記憶はあったとしても、当時の経緯などの情報は、当事者から聞くか、当時の記事などから仕入れるしかないわけで…。だから布袋氏の自伝での記述や布袋氏のテレビでの発言をソースに、「布袋氏発案」を事実であるかのように言うのも決して理由がないわけではない。ただ実際には「佐久間氏発案」だと証言する関係者がたくさんいるし、布袋氏もかつては(今でもたまには)「佐久間氏発案」だと言っていた。そうなると、当事者一人の意見(しかもその当事者は言うことがコロコロ変わる)だけで事実をこうだと決めつけるのは、実は危険なことなのかもしれない。
まぁ、私もここで色々想像を膨らませて好き勝手に書いているので、他人のことをとやかく言える立場ではないけれども。
元々私が噂について調べ始めたのは、BOOWY通と称する人々や当事者の話に矛盾があったり、当時あったと言われている出来事と明らかに齟齬があるから。
誰の発言が本当か判別しがたかったので、埒があかないと自分で調べ始めただけ。
今はまだいい。当事者の方々もまだ存命の方が多いから、多くの人の様々な発言を聞き、それを他の情報と照合して、事実は何かと自分で考察することができる。
だが、近年、鬼籍に入る関係者の人数が増えている。
40年も前にデビューしたバンドの関係者だから、当然と言えば当然なのかもしれないが、そうやって「実際に経験した人」が減っていき、残るのはBOOWY通と称する方々のみ。そういった方々が語るBOOWY裏話的な根拠は、本人の自伝など、文字として残された関係者の証言になっていくことだろう。
こういったイベントでの関係者の証言などは、正式な記録として残らないし、イベントレポなどがネットニュースとして掲載されることもあっても、ネットニュースはある日突然消失したりもする。過去の音楽雑誌の記事などは、自伝に比べると遙かに入手しにくい。となると、いずれは自伝に書かれていることが「事実」として一人歩きしていってしまうこともあるのかな…?と思ったり。
なんせ当事者の証言だ。ある程度信憑性があると考えるのが普通。あんなにもはっきり布袋氏が「俺が提言したから実現したのだ」と書いてしまい、高橋氏も自身の自伝だけには、その発言を裏づけるようなことを書いてしまったから。
「3rdアルバム『BOOWY』」のベルリンレコーディングは布袋氏発案」に改竄される日も近い、かも…?(笑)
【追記】
最近発売されたGuitar magazine2022年3月号の布袋寅泰特集のインタビューでは、佐久間氏が根津甚八氏のレコーディングで使用したハンザ・スタジオが素晴らしかったということでBOOWYのレコーディングスタジオの候補に挙がり、「行く行く行く」「"絶対にベルリンが良い!"と僕が大賛成」だったと語り、佐久間氏の提案に布袋氏が全力で乗っかったことを認めている。
さらに、アルバム「BOOWY」が発売された頃のインタビューでも、布袋氏自身がベルリン行きの経緯をこのように語っていた。
- アルバムをベルリンのハンザでやろうと思ったのは?
布袋 元々氷室とか俺とかはドイツの音楽に興味があって、DAFとかクラフトワークとか好きで、ああいう音楽よいねーって言ってたのね。で、あの音をやりたいわけじゃないんだけど、海外へ行くならドイツがいいねって話してたわけ。そしたら(今回のサウンド・プロデューサーの)佐久間正英さんの方からドイツでやろうって言ってきたんで、じゃあやろうと。(※17)
上記で引用した「ARENA37℃」1985年6月号における氷室氏の発言とほぼ同じ。元々氷室氏と布袋氏の間で、「海外レコーディングをやるならドイツでやりたい」と話をしていたところに、タイミング良く佐久間氏がベルリンレコーディングを提案してきたから、その提案に同調したのだ、と。
となると、やはりベルリンレコーディングは佐久間氏発案で、デヴィッド・ボウイ好きの布袋氏がその提案に飛びついたというのが「正解」なのだろう。
「あの音をやりたいわけじゃない」と言っているあたり、布袋氏が自伝で「BOOWYの音に重厚さをプラス」させるためにはベルリンレコーディングが必要だと思ったと語っていたのも、完全に後付け理由なんだろうなぁ(笑)。
【余談1:高橋氏の自伝について】
「ベルリンレコーディングは佐久間氏発案」と結論づけると、何故高橋氏が「レコーディング場所を布袋氏が指定した」と書いたのかが疑問に残る。
布袋氏は言っていることがしょっちゅう変わるが、高橋氏はそれほど変わらない。(絶対に変わらないとは言わないけれど。)
たまに実際の出来事と矛盾していて、これは高橋氏の記憶違いでは?と思うこともある。しかしその場合は、矛盾点は矛盾点のまま、首尾一貫して言い続けているので、積極的にBOOWYに関する嘘をつくタイプではないと考えている。なのに自伝にだけ「レコーディング場所を布袋氏が指定した」と書いた。
それは何故だろう?
正確な理由はわからない。
個人的な憶測を言わせていただければ、これは高橋氏の所謂「忖度」だったのではないか?とは思っている。(確たる証拠があるわけではないので、そこは誤解なきよう!)
何故なら、布袋氏の自伝「秘密」は2006年2月10日初版発行で、2007年4月4日に初版が発行された高橋氏の自伝「スネア」より発行が約10か月早い。
要するに、高橋氏が自伝を書くにあたり、布袋氏の自伝の記述に配慮して合わせたか、もしくは出版前に原稿チェックで布袋氏サイドに送ったら、そう訂正されて返ってきたかのではないかと疑ってる。
なんなら、松井氏の自伝「記憶」(2009年11月30日初版発行)で誰がベルリンを提案したかについて触れなかったのも、同じく布袋氏への配慮だったのではないかとも疑っている。
ある事実に対してメンバーがどう感じるかは人それぞれなので、違っていても問題ないが、ベルリンレコーディング実現の経緯が違うのはマズイ。布袋氏が自伝でベルリンレコーディングは俺のアイデア!、俺の事務所社長となったプロデューサーの手腕により実現!俺たちの手柄!BOOWYの快進撃は俺たちから始まった!とぶち上げてしまったので、合わせざる得なかったのではなかったのではないかと。(笑)
佐久間氏発案であろうとなかろうと、「プロデューサーは佐久間氏がいい」と言ったのは布袋氏。但し、布袋氏の自伝では何故か「佐久間氏は糟谷氏推薦」になっていたが。事務所やレコード会社が選んだ候補者の一人という意味なら確かにそうかもしれない。
そして布袋氏がデヴィッド・ボウイの大ファンなのは周知の事実。ボウイのベルリン3部作の舞台となったハンザトン・スタジオを布袋氏が提案した設定にしてしまっても不自然ではない。以前から夢物語として「もしやるならベルリンがいいね」と氷室氏と話し合っていたのなら尚更。実際に佐久間氏がそのスタジオを提案したら、目の色変えて飛びついただろうし。
だから「ベルリンレコーディングは布袋氏発案」ということにしても、大きな問題とはならないと考えて、布袋氏の自伝の設定に合わせた書き方にしたのではないか。
但し、布袋氏の自伝の書き方では、布袋氏の先見の明と布袋氏事務所社長(BOOWYプロデューサー)の手腕にフィーチャーしすぎて、佐久間氏の功績を軽んじすぎている。だから高橋氏は、「この時期の布袋氏の音楽的成長はめざましいものがあった」としつつも「『BOOWY』で佐久間さんから基礎的な音作りを学んだ布袋」(※12 P124)などと、佐久間氏が単なるサポーター以上の役割を果たしていたことがわかるように書いたのではないかなぁ……などと勝手に思っている。
「何だよ。そんなのお前の想像だろ!」と言われたら、その通り。
これが私の想像力の限界。私の頭では、高橋氏が自伝にだけそう書いた理由がこのくらいしか思いつかない。
もしどなたか事実をご存じの方がいらっしゃいましたら、是非教えてください。ソース付で。
事実関係が判明したら、訂正したいと思います。
【余談2:布袋氏の自伝について】
今回取り上げた「ベルリンレコーディング」に限らず、布袋氏の自伝に書かれている内容は、BOOWY時代とソロ初期に布袋氏が残してきた言葉や他の関係者の証言と異なるものが多い。
「自伝」である以上、自分に都合の良いことばかり書きがちで、多少話を盛って書くだろうというのはこちらも織り込み済み。だけど布袋氏の自伝は脚色しすぎというか……。話の盛り具合は、(一応BOOWYドキュメントと謳われているが、実際は脚色しまくりな)「大きなビートの木の下で~BOOWYストーリー~」以上かもしれない。
さらっと1回だけ読む分にはそれほど違和感がないと思うが、過去のインタビューや他のメンバーの自伝等々と一緒に読もうものなら、「…ん?んん?んんん????」と疑問符が頭の中を飛び交う。
話を盛るなとは言わない。でも最低限の整合性はとってくれませんかね。(泣)
BOOWYにまつわる色々な噂を調べていく時にネックとなることが多いのが布袋氏の自伝及び近年の布袋氏の発言。なんでアナタだけ言ってることが悉く違うのよ。
他の人が話していないことだとしても異様に詳しく語っているわりには、当時の出来事との整合性が取れていないとか……。
かつて氷室氏やら吉川氏やら山下氏やらが「言っていたこと」「やっていたこと」が布袋氏が「言ったこと」「やったこと」になってたりとか……。
自伝にツッコミを入れ始めるとキリがないし、洒落にならないものも多いけど、他愛もないものを例として一つ。
例えば高校中退からの上京、からのBOOWY結成に至る経緯。
布袋氏が高校卒業目前に、教師から髪型を注意されて、「イエス様だって長髪じゃないですか」と答えて退学したというのは、布袋氏自身がよく語る有名なエピソード。
この自伝にも同様のエピソードが紹介され、「かくして高校3年の3学期に俺は学歴を放棄した」とある。(※10 P51)
それ自体はいい。
自伝で布袋氏は、「高校3年の3学期に中退」し「1979年」に「17歳」で「上京」したと書いた。
布袋氏は1962年2月1日生まれ。つまり「高校3年の3学期に中退」して「17歳」で上京したのであれば、上京したのは1980年1月のはず。
これも別に大したことがない。暦年では1980年だが年度であれば1979年度だから。「1979年の東京は~」とやたら1979年を強調して当時の東京の描写が続くのも、きっと一生懸命資料を見て当時の流行を表すキーワードを散りばめながらそれらしく書いたのだろうなと想像できて、とても微笑ましい。
上京した布袋氏は地元の先輩を頼って池袋に住んだが、音楽活動はすぐに挫折したそうだ。一緒に夢を追って上京してきた土屋氏(後のBOOWYマネージャー)とは上京後間もなく決裂し、生活費を稼ぐために喫茶店のバイトの面接に行ったら、身長が高すぎて圧迫感を与えるからという理由で断られた等の苦労エピソードが自伝には続く。そうして生活のためのバイト三昧の日々が続き、「群馬を離れてもうすぐ1年が経とうとする頃、群馬時代に付き合っていた同級生の彼女が上京してきた。」
布袋氏は、その彼女と「阿佐ヶ谷」のアパートに移り住み、同棲生活を始めた。彼女が働いて布袋氏の生活を支え、布袋氏は帰宅した彼女のためにギターを弾く、所謂ヒモ状態。程なくして、刺激を求めるために新宿十二荘通りのマンションに引っ越したが、隣の部屋に住む反社会的勢力の構成員らしき人物に彼女が目を付けられた。彼女をどう守ったらいいのかと悩んでいるタイミングで、地元の先輩の小林径氏が訪ねてきて、小林氏が住む福生へ引っ越してこないかと熱心に誘われ、「福生」に2人して引っ越すことになったという。
そうして、「福生に住み着いて半年が過ぎようとするある日」、布袋宅へ氷室氏から電話がかかってきた、と。
この電話で約束した「六本木交差点、アマンドの前」での再会からBOOWYは始まった。
2人は集まって曲を作り始め、バンドメンバーを集めた。松井氏が加わり、後に高橋氏が参加し、初期メンバーには、「ヒムロック一派のギタリストの菊ちゃん」と「俺の同級生でサックス・プレイヤーの深沢」も加わった。(高橋氏の前のドラマーである木村氏についての言及はない。)
こうしてメンバーを集めたBOOWYは、原宿クロコダイルで初ライヴを開催。そうやって1982年3月、1stアルバム「MORAL」で、BOOWYは念願のメジャーデビューを果たした、とある。(※10 P74-110)
あれ?何かおかしくない?
私も最初は読み飛ばしていて気付かず、以前「BOOWYがはじまった場所」を書いていた時にあらためて読み直して気付いたのだが…。
「高校3年の3学期に中退」し、「17歳」で上京した布袋氏の言葉を信じるならば、上京したのは1980年1月頃。「群馬を離れてもうすぐ『1年』が経とうとする頃」に同級生の彼女が上京し一緒に暮らし始める。彼女と一緒に阿佐ヶ谷、西新宿で暮らした後、福生に移り住んで『半年』が過ぎようとするある日に氷室氏から電話がかかってきて、アマンド前で待ち合わせたと布袋氏は語る。
1980年1月+池袋で1年+(阿佐ヶ谷・西新宿時代)+福生で半年=???
布袋氏が書いた「原宿クロコダイルのライブ」がいつのことを指しているのかは、寡聞ながら知らない。オフィシャルブックの「BOOWY B to Y」では、BOOWY結成前に氷室氏と松井氏と初期メンバーの諸星氏、後のバービーボーイズのドラマーとで、同じく「原宿のクロコダイルでライブ」をやったエピソードが紹介されているが、これは布袋氏が合流する前のことだとされているので、この時ではない。そもそもこのライブの開催時期もはっきりわからないし、証言者もビーイングのスタッフだった方だけなので、本当にあったことなのかも検証できていない。
だが、BOOWYが1981年5月11日に、新宿ロフトでデビューライブ「暴威LOFT FIRST LIVE」を行ったことは有名だし、記録にも残っている。
なのに布袋氏の言葉どおりだとすると、氷室氏から福生に住む布袋氏のところへ電話がかかってきたのは、1981年7月以降になってしまう。
もう新宿ロフトでBOOWYはデビューしているのですが。
挫折しかけていた氷室氏が布袋氏に電話をかけたのは、日比谷野外音楽堂で行われたRCサクセションのコンサートに触発されて、というのは有名な話。このコンサートは1980年7月5日に行なわれたRCサクセションの初野音だと言われている。
つまり、布袋氏の自伝と1年の誤差がある。
「格好良さげなエピソード」として散々語られている「高校卒業目前で中退」というエピソードが偽りで高校2年生の時に中退したのでもない限り、あり得ない。
それに同級生の彼女が上京するタイミングとしては、高校を卒業して進学又は就職する時期が一般的だろう。だとすると、布袋氏が上京した数ヶ月後のはず。しかし彼女が上京したのは1年後だと自伝にはある。自伝を信じるならば、彼女が上京してきて布袋氏と一緒に暮らし始めたのは新宿ロフトのデビューライブ直前になってしまう。そうすると、他の諸々のエピソードとの辻褄が合わない。
「いや、昔のことだし、『布袋氏が上京して数ヶ月後に彼女が上京』というのを、ちょっとした勘違いで『1年後に上京』だと思い込んでしまったのではないか」
一瞬そう考えたが、あれだけ盛り沢山なBOOWY結成前の苦労話や上京以来支えてくれていた彼女とのエピソードを鮮明かつ詳細に語っているのに、その点だけ記憶があやふやだったり、勘違いをしたりするものなのだろうか。これが時と場所はわりといつも曖昧な氷室氏ならともかくとして。布袋氏の場合は詳しいし、具体的すぎるのに、その「具体的」な部分がちょっとおかしいことが多い。
本当にもう、わけがわからない。
布袋氏の自伝を読むと、そんな気持ちにしばしばさせられる。
これらのことからわかること。
この自伝は、多分ろくに校正が入っていない。
布袋氏が書いたまま(もしもゴーストライターが書いたのなら、布袋氏が言ったまんま)を、最低限の事実の検証すらせず、布袋氏が世間にそう思ってもらいたい布袋氏像と成功物語をそのまま本にしていると思う。新宿『十二荘』通りとか書いてるし。プロの校正が入っていたら、こういう誤りはしないのでは。(昔はこういう地名表記だったというのなら無知ですみません。)
そして布袋氏も自身が成功を掴むまでの過程を大層ドラマチックに書いているが、実は大して覚えていないか、話を盛りに盛っているのではないかと考えている。
この自伝で布袋氏は、上京して最初に池袋→阿佐ヶ谷→西新宿→福生→赤坂と移り住んだと書いているが、LASTGIGS直後に行なわれたインタビューでは、上京してすぐ池袋に住んで、「そっから阿佐ヶ谷なんですよ。で、阿佐ヶ谷、福生、西新宿、赤坂、で高円寺っていう、引っ越し病でしたからね」と福生へ行った経緯を語っている。(※14 P81)
また、福生への引っ越しを勧めたと書かれている小林氏は、福生は遠いので友達が来ないから物件を探しに「布袋君が住んでる阿佐ヶ谷に立ち寄った」ところ、布袋氏の方から「俺福生に住みたいな、径さんもっといようよ」と言われて、また1年ほど住んでいたと語っている。(※15)
自伝では阿佐ヶ谷→西新宿→福生だが、昔の布袋氏や福生へ引っ越すきっかけとなった小林氏は阿佐ヶ谷→福生→西新宿だと言っているというお話。さらに、小林氏は、自分が布袋氏を誘ったのではなく、本当は福生から引っ越そうと思っていたところに、布袋氏が福生に住みたいからもっと居てくれとねだられてそのまま留まったという。
どちらでも良いと言えば良いのだが、阿佐ヶ谷から直接福生よりは、途中西新宿を挟んで、そこで反社会的勢力の構成員に目を付けられた彼女を守る為、とした方がより美談めいたエピソードになるからね…。さらに後に起きた彼女との別れをより悲劇的なものとして描くことができる。
自伝で布袋氏は、彼女と別れた時のことを「生涯傷が残る出来事」と称し、「俺を裏切った」「俺の理解を超えた、衝撃的な結末」「俺は半ば追い出されるように赤坂のアパートを出た」「二度と女なんか使用しない」と荒れて、暴れた様を記している。
身も蓋もない話をすれば、当時の布袋氏はまだ十代。同級生というなら、彼女も同じ。成年年齢が引き下げられた民法改正はつい最近なので、住まいの賃貸借契約を取り交わすには親権者の同意が必要。連帯保証人はどうするの?収入証明は?また、当然正式契約締結時に敷金礼金が要求されるだろう。つまり貧乏な十代のカップルが短期間にそうほいほい引っ越すことは、できないとは言わないけれど、難しいのではないかと考えるわけで。まして布袋氏が彼女と暮らしていた時期は、自伝によるとBOOWY結成前~「INSTANT LOVE」くらいの、布袋氏に全然お金がない時期なわけで。布袋氏自身も「いわゆる『ヒモ』になってしまった」と語っている。
なのに布袋氏は、自分は引っ越し病で、非常に短い間に何度も引っ越ししたと語る。
……それって単に何かやらかして住まいを追い出されただけなのでは?
それ以前に、同級生の彼女と上京以来ずっと一緒に暮らしていたというのは本当なの……?あちこちの女性宅に転がり込んでいたというなら引っ越しばかりでも納得できるけど……と色々邪推してしまうわけで。
布袋氏の希望で彼女と一緒に何度も引っ越したのが本当だとしても、十中八九引っ越しにかかる諸費用と家賃は彼女持ち。バイトをクビになってヒモ状態の布袋氏に自分の金はないだろうし、「赤坂のアパートを追い出された」とあるので、布袋氏が契約していたわけではないだろう。
福生時代の家賃が月5万円ほどと書いてあったが、高卒初任給が10万円に届かない時代に家賃だけでその金額…?布袋氏もちり紙交換などをして家計を助けたとの描写もあるが、金銭面一つとっても彼女に相当な負担をかけていたのではないかと疑ってしまうわけで。
完全部外者の立場からだと、いつ愛想尽かされてフラれてもおかしくない状態にも見える。なので、布袋氏が一方的な被害者のように恨み辛みを語るのに違和感を感じてしまう。いつか花開くと才能を信じて支えるのは彼女にとっての義務ではない、と。
勿論だからといって裏切っていいわけではないし、どういう裏切りかも知らなければ、本当にそんな裏切りがあったのかも知らない。しかし布袋氏は、自伝では「生涯傷が残るほどの彼女の衝撃的な裏切り」と書いたものの、自著「よい夢を、おやすみ。」で、福生時代を振り返る中で、「裏切り裏切られた彼女との愛」(※16)と述懐していたので、実際のところは、自伝での書きっぷりほどの「一方的な裏切り」ではななかったのではないか。(と個人的には思う。)
まぁ、当事者同士にしかわからないことも当然あるだろうし、外野が口出す話ではないのは重々承知しているけれども。(下衆の勘ぐりですみません。)
御本人のプライベートに関わることなので、これ以上詮索する気は全くないが、自伝全体を通して、布袋氏は自分が相手に与えてやったアピールは凄いが、相手から与えてもらったものに対する恩や感謝の念があまり伝わってこない。他人を誉めていても、最終的にはそれすらも自分への賞賛に繋がっていく感じがするというか……。謝辞を述べていても何気ない瞬間に滲み出る態度や言葉がそれを裏切っているというか……。都合の悪い過去はなかったことにして過去を美化するというか……。
私の受け取り方の問題だと言われたら、そうなのかもしれないけれど。
ある意味、言ったもん勝ちな印象を受けるのだ。
布袋氏は、「悲劇の主人公」的なポジショントークをたびたび行う。
目の前にこんなに大きな困難が!挫けそうになった俺!しかし逆境に負けずに頑張った俺!そうするうちに周囲から認められた!そうして俺は成功を掴んだ!風なシチュエーションが大好き。(だと彼の言葉の端々から感じる。)
その最たるものがこの自伝。そう私は捉えている。
自伝に書いてあることが全部が全部嘘だとは言わないし、布袋氏の考え方を示す貴重な資料であるとは思うが、自伝に書かれている諸々のエピソードともあわせて考えるに、かなり布袋氏に都合の良いように脚色されていると思う。
他の関係者や過去の布袋氏の発言に鑑みるに、この自伝は、少なくとも客観的事実に基づくものばかりでは決してない。布袋氏の布袋氏による布袋氏のための実話風フィクション小説のようなものと思って読めば、とても楽しめるとは思うが、ある事実に対する裏づけ資料としての価値は低いというか……あまり当てにすることができない。
ここに描かれているのは、「布袋氏がどのように生きてきたか」ではなく、「布袋氏がこのように生きてきたと世間に思ってもらいたい姿」なのだと思う。「どう見られたいか」が布袋氏の行動原理の重要なファクターではないか。
布袋氏はとかく自身の功績を過大にアピールしがちだ。自伝でベルリンレコーディングを自身の発案と書いてしてしまったのも、その一環だと思っている。
ある事実に対する感じ方が人それぞれなのは当然だし、演出のために関係者一同でストーリーを練って「そういうこと」にしたり、その場を盛り上げるために多少話を盛ったりといったことは当然あるだろう。そういったものまで全て否定するものではない。事実をあるがままファンに晒すことが良いことばかりではない。むしろ見せるべきではないところは見せないという優しさもあると思っている。
だが、布袋氏の場合はあまりにも度が過ぎているというか……。布袋氏自身が自己承認欲求や自己顕示欲を拗らせまくって、そういうフカシに対して罪悪感や良心の呵責を覚えないタイプなのではないかと疑っている。そのくせとても詰めが甘い。「考え方が変わった」と擁護できないほど、言ってることがしょっちゅう変わるのはいかがなものだろう。その場の空気に応じて発言を変えるというのはエンターテイナーとしては必要な要素でもあるのは確かだけど、もうちょっと過去に何を言っていたか覚えていてくれませんかね?と思うことも。
とにかく布袋氏の発言は、整合性が……。
音楽一本だけで勝負しているのならばこちらもとやかく言わない。だけど、近年の布袋氏は自身のソロ活動のプロモーションでBOOWY時代の想い出話を語りまくり。ストーリーを作りまくり。
いや、話を聞けること自体は、ファンとしては嬉しい。でも、その時々によってコロコロ変わる、「その時の布袋氏にとって都合の良いように脚色された妄想」を聞きたいわけではないのだ。それによってファンが一喜一憂するのだから尚更。
自身のソロ活動のプロモーションとしてBOOWY話を活用することそのものを悪だとは思わない。BOOWYは間違いなく布袋氏の活動の軌跡の一部なのだから。ただあちこちで違うことを言っていると、どんどんどんどん布袋氏が発する言葉に重みがなくなっていく。(個人的には、布袋氏のソロ楽曲「さらば青春の光」制作時の「想い」が「その時に一番ウケる言葉」にコロコロ変わったのは、非常にがっかりさせられた。ファンの気持ちを弄んで自身のイメージアップに繋げる手法はいただけない。)
噂の真偽を考察するにあたって重要なのは、当時の状況と当事者がそれに対してどう思っていたかということ。当事者の想いというのは、インタビューや自伝などから類推するしかない。なのに当事者の布袋氏の発言自体が信憑性に欠けるとなると、もうお手上げ。
さりとて、基本的にあまり語らない&みんなで「こういうことにしておこう」と決めたことは意地でも守り通す氷室氏も、それはそれで困るのだけれども。
本当に、どうにかならないものか。
とりあえず布袋氏はイソップ寓話「羊飼いと狼」を100回くらい読んだ方が良いと思う。
【出典・参考資料】
※1 佐久間正英ドキュメンタリー番組『ハロー&グッバイの日々』(2013年12月25日24:10~ NHK総合テレビ)
※2 アナザースカイ 今年35周年の布袋寅泰がBOOWY想い出の地ベルリンへ』(2016年7月15日23:00~ NTV)
※3 【月刊BARKS 佐久間正英 前進し続ける音楽家の軌跡~プロデューサー編 Vol.2】80年代のプロデュース~BOOWYからブルーハーツへ(2013年9月26日)
※4 ROCKIN'ON JAPAN 1991年4月号 「佐久間正英の全仕事」 P14)
※5 「匠の記憶」第5回 BOOWY 3rdアルバム『BOOWY』ディレクター・子安次郎さん(2015年6月26日)
※6 「記憶」/松井恒松著 P77
※7 otocoto COLUMN 佐伯明のGREATEST ARTIST SERIES BOOWY#003(2017年9月16日)
※8 「音漬日記」/佐伯明著 P141-142
※9 BARKSインタビュー【対談】高橋まこと(ex BOOWY)×森山朝雄(ex BOOWY PA)「こんなに想い続けてもらえるって不思議。変なバンドだね」(2013.3.27 19:08)
※10 「秘密」/布袋寅泰著
※11 宝島 1987年12月号 布袋寅泰 LONG INTERVIEW「ギタリストの栄光」 P32
※12 「スネア」/高橋まこと著
※13 ARENA37℃ 1985年6月号 P82
※14 ROCKIN'ON 1988年5月号 増刊 ROCKIN'ON JAPAN FILE Vol.2 P90-91 布袋寅泰インタビュー/インタビュー日1988年4月23日
※15 別冊宝島 音楽誌が書かないJポップ批評43 21世紀のBOOWY伝説 P51
※16 「よい夢を、おやすみ。」/布袋寅泰・森永博志・ハービー山口 著 P98
※17 音楽専科 1985年8月号 P70