氷室京介のこだわり③
先に、①、②からご覧いただきますようお願いいたします。
【「恥ずかしくなく」生きる】
創っては壊し、何度も何度も歌い直し、時間をかけて作品を完成させていく。
そんな氷室氏が特に重要視すること。それは、先にも少し触れたが、「その時自分がやれることをやりきったかどうか」。
引用させていただいたインタビューでいずれも出てくる「恥ずかしくない」というフレーズ。
この言葉は氷室氏のインタビューで度々登場する。
自分を応援してくれるファンへ恥ずかしくなく。
何よりも自分自身に対して恥ずかしくないように。
そのために力を尽くす。そのために頑張る。
その『結果』には満足していない。
「ここまでしかできないのか」
「こんなはずじゃない」
そんな悔しさはある。自分の力不足を痛感することもある。それでも、その時の自分にはこれ以上できなかった。その時点で自分でやれること、やるべきことは全てやりきった。だから、恥ずかしくはない、といった趣旨で。
【BOOWYへの想い】
BOOWYについてもそうだ。
あの時4人で一生懸命やった結果が出ている。だから恥ずかしくない、と。
だがこの言葉、BOOWY至上主義者視点では大層面白くない言葉のようで……。
「BOOWYが恥ずかしくないとは何事か!」と噛みついているBOOWYファンを何人かお見かけしたことがある。
「BOOWYで成功を掴んだのに、リスペクトが足りない」「もっと誇りに思って感謝の言葉を捧げてほしい」「まるでBOOWYというキャリアを恥ずかしいと思っているようで悲しい」と。
しかしながら、この「恥ずかしくない」という言葉は、決してBOOWYというキャリアの否定ではないことが、きちんと他の氷室氏の言動や活動を追っていればわかるはず。
そもそもこの御方、自分のことはあまり褒めない。(「格好いいだろ。(ニヤッ)」みたいなのはある。ただしそれもご自身を俯瞰的に見ての言葉なので嫌味がなく、所謂ナルシストとは一線を画す。)
氷室氏が褒めたり称えたり感謝したりするのは、主に、支えてきてくれたスタッフや応援してきてくれているファンに対して。
例えば、全曲BOOWYのチャリティライブで多額の義援金を被災地へ寄付できたことについても、「俺はただ歌っただけ。きちっと最後までこうあるべきだという形に着地させてくれたのはスタッフで、そういうスタッフが周りにいるということが俺の30年のキャリアの中で一番プラウドなこと」「毎回こうして日本に戻ってくるたびに集まってくれるお前らとか、後ろを支えてくれているメンバーとか、こいつらをみると本当にガーディアンエンジェルに俺は守られていると思います」などといったように。
(注:チャリティライブを発表直後、BOOWYの再結成が叶わなかったのはまるで氷室氏のせいであるかのような布袋氏のコメントや非難が滲む愚痴めいた松井氏のコメントが発せられ、BOOWY再結成熱望派や布袋氏のファンから散々な誹謗中傷を受けていた際には、チャリティライブは『自分が』決断したことだとして、自身が全責任を負うようなコメントを発していたが、多額の義援金を被災地へ寄付できた後からは、全てスタッフやファンのおかげだというコメントに変わっている。)
確かに他のメンバーのように「これからは俺がBOOWYを背負っていく」「BOOWYを聴きたきゃ俺のライブに来いよ!」(布袋氏)、「BOOWYを伝道していかなきゃならない」(高橋氏)みたいなことは、決して言わない。けれど、それは「成功を拠り所に生きていくことをしたくない」「少しでも向上していきたい」というスタンスの現れ。(「じゃあ、どうしてBOOWYの楽曲を歌うんだ!」と非難する方もいらっしゃるが、それはもんのすごく大雑把に言うと、それまで支えてきてくれたファンへのサービスでしかない。そう考える理由やその他諸々に対する私の想いについては、超長くなるのでここでは割愛する。)
BOOWYは今も尚多くの人に愛され、世間に「頂点で解散した伝説のバンド」と持て囃されてはいるけれど、BOOWYの活動に氷室氏が満足していたかというと……これまでの氷室氏のインタビュー等々から判断させていただくと、解散が決定的になるまで、氷室氏はバンドとして更なる高みを目指していた節がある。ただ、バンドでの高みを目指す氷室氏に布袋氏がついていく気がなく、「布袋寅泰」自身への評価と成功を夢見たことに始まり、布袋氏によるBOOWYの活動を蔑ろにする行動や言動の数々を経て、BOOWYは終焉を迎えた。そういった経緯と、氷室氏自身の「犠牲フライ」発言などに鑑みるに、(BOOWYでやれることはやったと言っているものの)氷室氏がBOOWYの活動に満足しきっていたとは考えにくい。
では、氷室氏がBOOWYを愛していないかというと、そうではない。
計算ではなく情熱の赴くまま活動して、それがウケた。
愛おしい過去、最後の子供時代。
更なる高みに昇りつめたかったとしても、バンドは1人ではないから。4人で一緒に目指すものだから。メンバーが目指すものがそれぞれ異なるようになったら、バンドとしてはそれでお終い。
でも、あの時4人でやってきた音楽に間違いはなかったからこそ、解散から大分経って、自分がBOOWYの楽曲を演ってもそれなりの説得力を持っている。それは4人で一生懸命やってきた結果でもあり、誇りを持っている。だから後悔してはいない、ということではないか。
ならば、彼にとっての「恥ずかしくはない」は、自分はやるべきこと、その時やれることはやりきった、と言い切れる自信の現われに他ならない。誰に何と言われようとも、「恥ずかしくない」と胸を張れる。たとえその結果が「ここまでしかできなかったのか」という悔しさが残るものだったとしても。
(実際、「あの時点」での解散を避ける唯一の方法は、氷室氏が自身の矜持を枉げ、バンドの本質を歪めて、布袋氏の我儘に付き合うことしかなかったと個人的には思っている。もしそうなった場合はBOOWYは凡百のバンド……というと言い過ぎだが、少なくとも今も多くの人にリスペクトされる伝説的バンドとして語られることはなかっただろう。)
「誰にも触れさせたくない。自分でも触れたくない」
そうBOOWYについて語っていたこともある氷室氏は、布袋氏のようにことあるごとに「BOOWYの思い出話」や「BOOWY時代の(ファンなら誰もが知っているような既出の宣材)写真」をSNSにアップしては、自身に注目を集め(て、『布袋寅泰』の芸能活動の宣伝をす)るようなことはしない。でもそれは「BOOWYに対して愛がない」ということではなかろう。
ただBOOWY至上主義者は、常にBOOWYが一番で、全てがBOOWYに集約していないと気が済まない方も多いから、難しいところ。その辺りは個人の価値観なので。
確かに氷室氏はBOOWYを大切にしているけれど、一番大切なものではないだろうから。それでも、実際にはそう思っていないくせに、最も大切であるかのように綺麗事を口にする(だけで行動は伴っていない)よりは、ファンに対して断然誠実だと、私は思っている。
【「自分」が納得できるまで】
兎に角「その時に自分ができることをやり尽くす」ことを大切にしている人。やれることをやらないで後悔したくない人。御本人も「病的」と称しているが、最終的にダメという結果が出たとしても、それまではボロボロになるまでやりきらないと納得できない人。
そして、彼の追求する理想は、設定した目標は、我々ファンが想像するよりも、多分、果てしなく高い。
傍からはどんなに完璧に映っても、決して本人は満足しない。満足したら終わってしまう。理想に届かなかった悔しさを胸に秘め、それをモチベーションとして次はもっといいものを創ろうと頑張る。その繰り返し。それが「俺の音楽かもしれない」と言い、完璧になろうと足掻き続けるその様こそが「生きていること」だと思う、と。
かつて氷室氏に取材したことがあるという方が、氷室氏の卒業宣言がなされた後に行われた2014年の横浜スタジアムのライブを観て、こう呟いていた。
「氷室京介がどんなアーティストなのかを簡単にいうと、97点を取ればまったく合格点で、だからまわりの人たちは97点に着目するけど、ヒムロックは足りない3点についてディープに考え込むタイプ。音楽に対し、自分に対し、とにかく誠実であろうとする人。」
そうして「氷室京介の誠実さは「口癖」からもわかる。その「副詞」はライヴのMC、それからインタヴューでも出現する頻度が高い。いつも「そのように」しようと心がけているからだと思う。その言葉とは、「きっちり」だ、と。
確かに、彼のインタビューでは、「きっちり」或いは「きちんと」という言葉をよく見かける。
「TOUR ”COLLECTIVE SOULS”1998 One Night Stand」における「2音違った」発言も同じだ。
理想に僅かでも届かなかったことがあればそれに対して真剣に考え込み、音楽に対して、その音楽を追究する自分に対して誠実であろうとする。
職人気質というか、オタクだし音楽バカ。(注:悪い意味ではない)
さらにもっと良いものができるのではないか」と、何度も何度も、時間が許す限り、状況が許す限り、トライし続けてしまう。
もちろん「その時」に実力が伴わなかったり、状況が許されなかったり、色々な要因で100%満足いく作品ができないこともある。だが、その結果については真摯に受け止め、その反省を踏まえて次はもっと頑張る、次はもっと向上する。それが一歩でも半歩でもいいから前に進むことができればいい。斃れるとしても前のめりに斃れること。それを信条としている人。
そのうえで、その時自分がやれることをやりきれたのであれば、自分に対して「恥ずかしくない」し、それを提示するオーディエンスに対しても「恥ずかしくない」。そう考える人。
そしてこういうところが氷室氏が完璧主義者だと言われる所以だと思われる。
【「突き詰める」ことの弊害】
とはいえ、「出来上がった作品が全て。作り手がそれに対してどれだけ時間を掛けたかで評価されるものではない」。そういうご意見もあろう。これもまた真理。
このことは、氷室氏自身も十分認識していたようだ。
やりすぎてドツボにハマるという。
……本末転倒?!
「もっと大局を見ながらコントロールできるようにならないとダメ」と自覚はされているようだけれども、その後の御大の活動を拝見する限り、反省は活かせていない模様(苦笑)。
ご自身でも仰っていたように、セルフ・プロデュースをやめて、別の誰かをプロデューサーとして立てるのも一つの手なのだろうが、なかなか氷室氏の温度感やテンションを理解し、付き合ってくれる人材かいるのかという問題が。
個人主義のアメリカでは、本人がNOなら(自身の職分を侵さない限りは)NOだし、かといって日本では「氷室京介」の存在はあまりにも大きすぎる。なまじっかな人では氷室氏に太刀打ちできない。
スタッフへの言動等から察するに、氷室氏の場合、基本的に餅は餅屋と考えて、自分の及ばない分野に関しては信頼できる専門家に多くを委ねる人だと思うが、こと音楽に関しては、一角の人相手でもそう簡単に氷室氏は譲らないだろう。そうなると果たして適任がいるかどうか。
アレンジを委ねたり、セッションして一緒に音楽を作りあげる人材には事欠かなくても、全体を見てオーガナイズし、氷室氏の求めるところへうまく着地させることができる人材となると難しいのかもしれない。他人に任せて納得できないことをやるくらいなら、時間がかかっても自分で納得いくまでやる方がいいとの判断で、その後もずっとセルフ・プロデュースを続けてきたのだろう。
余談として、こういうことを言うと、BOOWY信者はすぐに「布袋氏をプロデューサーに迎えてほしい!」と言いがちであるが、私が思うに、ソロ・ミュージシャンとなった「氷室京介」と、「布袋寅泰」の相性は良くないだろうと考えている。(個人の意見です。)
何故なら、布袋氏は基本的に相手が何をやりたいかより自分のやりたいことを優先するから。自身が関わったお仕事に対する幾つかの布袋氏のコメント等を拝察すると、プロデュースにしろ曲提供にしろコラボにしろ、彼の行動の根底にあるのは「自身の凄さの証明」であるように感じるのだ。相手の良さを引き出すのではなく、相手が持つポテンシャルのどこを利用すれば自分(の楽曲)が引き立つかを重視している人のように見えてしまう。その上、布袋氏は自分の「仕事」に他人から口を挟まれるのが大嫌い。
元々氷室氏は制作において、サポートミュージシャンが色々アイデアを出してくるのを喜び、より良い楽曲を完成させるためならそのアイデアを取り入れるのも吝かではないタイプであるとお見受けするが、かといって唯々諾々と従うわけではない。バンドであれば譲ったであろうことも、ソロでは「自分の楽曲の責任を負うのは自分自身のみ」との信念の下、気に入らなければ容赦なく駄目出しするだろうし、やりたくないことは(彼が納得する、やる必要性や理由を提示できない限り)やらない。注文も細かい。それに布袋氏が耐えられるとは思えない。技術云々は取りあえず横に置いておいて、布袋氏のメンタリティが耐えられない、というか耐える気がない。
だからといって、氷室氏の拘りに布袋氏が付き合いきれず、例の如く直接相手と向き合うのを避け、周囲を動かして外堀を埋め、外圧で自分の思うとおりに動かそうとすれば、今度こそ氷室氏が病みかねない。
もっともそれ以前に、氷室氏が今更布袋氏を自身の音楽活動に関わらせるつもりはないだろうが。
まぁ、布袋氏を迎えれば、リリース間隔はもう少し短縮されるとは思うけど。
【閑話:東芝EMI復帰移籍異聞】
とはいえ、そんな制作期間が超・長い氷室氏だが、(1枚は収録曲が少ないとはいえ)1年間に2枚アルバムを出したことがあった。それはポリドールに在籍していた2000年のこと。
氷室史上大層珍しいことに、アルバム「beat haze odyssey」は、「MELLOW」の僅か8か月後にリリースされている。(もっとも、「I・DÉ・A」から「MELLOW」が出るまで、途中バラード・ベストとライブアルバムとインストゥルメンタル・アルバム)が挟まるとはいえ、2年以上かかってますけどね……。)
これに関してはツアーの予定や、その後のレコード会社移籍といった事情を含み置く必要があろうが、ポリドール時代は、シングルに関しては、それまでの東芝EMI時代と変わらないペースで出ている。
但し、それについては氷室氏の意向よりもレコード会社の意向が大きかったようだ。
ポリドール・レコードのトップであった石坂敬一氏は、このように当時を振りかえっている。
ポリドール時代、CDを出すよう石坂氏が氷室氏の尻を叩いていた模様。(笑)
うん。確かに石坂氏なら氷室氏に物申せる。氷室氏も尊敬する、BOOWY時代からの恩人(かつ所属レコード会社のトップ)直々の依頼では無碍にはできまい。石坂氏を追って東芝EMIからポリドールへ移籍するくらい敬愛していた御方だもの。
納得いくまでじっくり時間を掛けてクオリティの高い作品を制作したい氷室氏と、出せば売れるのだからどんどん出してほしいレコード会社の意向との落としどころがシングル多発と「beat haze odyssey」の収録曲数の少なさで、その方針の違いが再移籍に繋がっていったと考えれば、ポリドール・レコードから出て行ったのも納得できる。(その後またワーナーでご一緒したあたり、お二人の間にこの件に対する蟠りはないと考えている。一ミュージシャンとして譲れないものと一ビジネスマンとして優先すべきものが決定的に異なることはお互い十分理解していたであろう。)
氷室氏は東芝EMIへの再移籍の理由を明らかにしておらず、上記も石坂氏の推測でしかないが、強ち的外れでもないのかな?と思ったり。
東芝EMIへの再移籍後は、リリース間隔が大層ゆっくりになっているので、コンスタントにリリースするよりも、じっくりと腰を落ち着けて制作できる環境を整え、自分が表現したい音楽を追究することを重視して、そういった契約内容に変更したのではないか。
その結果が、東芝EMI復帰第1段となるアルバムを、1曲残して全部没にして作り直す(ことが許された)という顛末なのかも(苦笑)。
ま、あくまでも私がそうだと思ったというだけで、憶測にすぎないんですけどね。
それにしてもこの御方、どこかでせっつく人がいないと、際限なく拘って作っては没にしてをくり返してしまい、いつまで経っても完成しない疑惑が…… (笑)。(←笑い事じゃない。)
氷室氏にアルバムをリリースさせるには、契約で縛るか、アニバーサリーに合わせたり、予めライブのスケジュールを組んでおいたりするなど、何かしらの区切りなりゴールなりを示さないと厳しいのかもしれない。そうやって踏ん切りをつけさせないと、際限なく悩んでいそうだ。
返す返すも、ちょうど“区切り”の年に起きた放火事件やコロナ禍が残念でならない。
待っているファンの立場からは、「もういい加減いいんじゃないですか?」「アルバムが無理ならせめてシングルではどうでしょう?」と言いたくもなるが、そんな創作活動に対する拘りも好きだし、リスペクトしているところでもあるので、一概に悪いとは言えないので難しいところ。彼の音楽に惚れた弱み……(泣)。
納得できる作品ができるまで拘ってほしいし、耳のコンディションがあまり思わしくないのなら無理もしてほしくない。
他方、新たな作品を聴きたい気持ちも強い。だけどファンの想いが重荷になってほしくもない。かといって、新たな作品を待ち望むファンの声が御本人に届かないと、折角何か作品を作っても発表することなく終わってしまいかねそうで怖い。
私は、氷室氏がその生涯において音楽から離れることはないと信じている。というか、離れられないと思っている。だが、作りあげた作品を世に出すかどうかは、それとは全く別の問題なのでね。(あの御方のお宅には一体どれだけのお蔵入り作品が眠っているのだろう……。)
結局のところ、氷室氏がその気になるまでファンは勝手に待ち続けるしかないんですよねぇ。
イベントの度に「あー!今回も何もなかったー!!」と心の中で雄叫びを上げつつも、性懲りもなく新譜を待ってるぞー!!(ここで叫んでも何にもならないことはわかっているけど叫ばせて。)
ちなみに、今年の私の初夢は、氷室氏のニューアルバムを手にした夢でした。残念ながら、曲を聴く前に目が覚めたけど!どうせなら聴いてから目が覚めたかったわー!!
アルバムジャケットを見て「本人の写真ではなくどうしてこのイラスト……?」とひどく困惑したことだけ覚えている。(近影がないため、夢の中でも現在の氷室氏の姿が想像できなかった模様。)
ついでに、「KYOSUKE HIMURO LAST GIGS」の東京公演初日からちょうど8年目の今年5月21日の夢は、「 GOSPELS OF JUDAS」のニューアルバムが出た夢でした。「え、氷室京介ではなくGOJなの?」 と驚いてアルバムを二度見したところで目が覚めました……。
私はこれまで氷室氏関連の夢を見たことがない(「卒業宣言」の時も「KYOSUKE HIMURO LAST GIGS」の時ですら見なかった)のに、どうして今年に入って立て続けに見たのだろう。不思議。
今度の氷室氏のデビュー記念日にでも何か「良いお知らせ」があるといいなぁ……。
※「氷室京介のこだわり④」に続きます。多分次で完結すると思います。きっと。
【出典・参考資料】
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