朴永心証言・取材記事1(検証) ~慰安婦となった経緯~
1.1938年3月 朝鮮出国の証言
朴永心は”1938年3月、17歳の時に南京へ鉄道(または自動車)で移動”とする内容の証言(①1995.北朝鮮/②1999.ニュース打破/③2000.女国裁法廷)をした。
日中戦争(1937~1945)初期の1938年は、南方向(南京)と北方向(天津)から日本軍の侵攻が進められた。平壌―南京間にある「徐州」は未だ日本軍の非占領地域であり、鉄道であろうと自動車あろうと通行不可能であった。平壌から南京へ陸路で移動できるようになったのは1938年5月の「徐州会戦」以降である。日本軍はこの会戦に勝利したことで、鉄道「津浦線(天津―浦口)」を占有でき、南北の交通が可能になった。
ちなみに「1939年 欧亜大陸鉄道の旅」ブログの情報から、平壌から南京(浦口-南京間は渡河)までの移動期間は約2日である。
2.1939年8月 朝鮮出国の証言
朴永心は2000年12月に開催された自称『女性国際戦犯法廷』おいて、被害女性として”1938年3月”に被害にあったことを証言(③2000.女国裁法廷=但し、ビデオ映像)した。
それから3年後の2003年1月3日、「ソウル大と米リバーサイドカリフォルニア大のチームによる「米軍尋問記録『昆明の朝鮮人・日本人捕虜1945年4月28日』を発見」報道があった。
しかし、その米軍記録には「朝鮮出国1939年8月 Pyŏngan Nando(平安南道) Pak Yong-sim(パク・ヨンシム) 23歳 P'yŏongyang(平壌)」とあり、朴永心が証言した”1938年3月”と異なっていた。
そこで米軍記録に擦り合わせた新たな証言が必要となり、約1年後に”1939年8月”証言(④2003.12.25西野)が登場した。
🔳2003.1.3 中央日報
米軍尋問記録「昆明の朝鮮人・日本人捕虜.1945年4月28日」発見の報道
🔳米軍尋問記録「昆明の朝鮮人・日本人捕虜 1945年4月28日」P7
Korean and Japanese Prisoners of War in Kunming, 28 April, 1945
3.慰安婦となった経緯
1.年齢
証言(➄2004.1.17 北朝鮮→ノーカットニュース)では「1921年12月15日」の生誕年月日の情報が追加された。
これは先の米軍記録と整合性が取れない証言(①1995.北朝鮮/②1999.ニュース打破/③2000.女国裁法廷)の1938年=17歳を黙殺し、証言(④2003.12.25西野)の1939年=17歳を確定させる目的があったと思われる。
つまり、米軍記録にある「1945年4月28日」「パク・ヨンシム 23歳」と「朝鮮出国1939年8月」の情報を元に、”1939年8月 17歳”が割り出され、誕生日(1921年12月15日)を加えて捏造されたのである。
<検証>
朴永心の誕生年月日:1921年12月15日
年計算(1年毎に加齢)
1938年は17歳=〇 1939年は18歳=✖ 1945年は24歳=✖
満年齢(誕生日毎に加齢)
1938年3月は16歳=✖ 1939年8月は17歳=〇 1945年4月は23歳=〇
<計算方法>
年計算:証言(①1995/②1999/③2000)
1921(0)/1922(1)/1938(17)/1939(18)/1945(24)
満年齢:12月15日の誕生日で加齢。証言(④2003.12.25西野/➄2004.1.17 北朝鮮→ノーカットニュース)
1921(0)/1922(0~1)/1938(16~17)/1939(17~18)/1945(23~24)
数え年(生誕日に1歳、以降1月1日毎に加齢)
1921(1)/1922(2)/1938(18)/1939(19)/1945(25)
🔳証言(④2003.12.25西野瑠美子)
『戦場の「慰安婦」 拉孟全滅を生き延びた朴永心の軌跡』
🔳証言(➄2004.1.17 北朝鮮→ノーカットニュース)
北朝鮮「補償対策委員会」調査報告書の要約
2.被害に遭った季節(1):気温
朴は被害発生年について、1938年証言(①1995.北朝鮮/②1999.ニュース打破/③2000.女国裁法廷)と1939年証言(④2003.12.25西野/⑤2004.北朝鮮→ノーカットニュース)の両方が存在する。
前項の指摘の通り米軍記録内の情報に合わせたことで、被害発生時期も1938年「3月」と1939年「8月」という、全く異なる時期を証言したことになる。
これは、朴自身が被害に遭った時期が「肌寒い3月」だったか、「真夏8月」であったかすら”わからない”という疑惑が生まれ、自身が拘束され被害を受けたのが「何時(いつ)」なのか、季節すら説明できていないことの証明なのである。
🔳平壌と南京の平均気温(年代は不一致)
3.被害に遭った季節(2):日本人巡査
朴永心の証言(①1995.北朝鮮)と証言(④2003.12.25西野)では、日本人巡査の制服は「黒」だったという。1933年「警務彙報」によると、警察官の夏服は「鼠茶褐色」だという。恐らくは茶鼠色(茶色みの鼠色)のような色であると考えられる。それ以降に服色に関する改訂はないようなので、(1938年)3月ならば「黒服」であるが(1939年)8月は明らかに「黒服」とは言えない。
なお『朝鮮警察職員禄』によれば、1930年の「平壌警察署」では4割近くの警察官(警部補1名、巡査部長3名、巡査46名)が朝鮮人であった。朴が被害に遭ったとされる1938~1939年の該当警察署の警察官も4割の朝鮮人が在籍していたと考えられ、こうした犯罪行為が事実ならば韓国人の慰安婦問題への反応のように、当時の朝鮮人が何の行動を起こさずにいられただろうか。
https://www.koreascience.or.kr/article/JAKO201614139534185.pdf
昭和5年(1930年)『朝鮮警察職員録』「平壌警察署」職員名簿
4.不信感を募らせる証言(移動経緯)
朴証言の特徴は、大半の証言内容が受けた被害の説明であり、それ以外の証言内容は極めて少なく且つ、証言毎に内容が異なる。被害を受けた内容を証明する以前に、その経緯や被害時の周囲の状況や移動経緯などの客観的な情報がなく、更に不信感を募らせる。
移動手段の証言では異なる証言が多く且つ曖昧で、平壌出発時に「何に乗せられた」か、その後「何に乗り換えた」のか「乗り換えなかった」か証言が確定できない。
客観的事実とは、例えば「南京手前で長江を渡った」との証言があれば、これを検証し立証することができる。しかし、こうしたものが皆無である。
朴証言からは、南京へ移動したのかすら疑わしい。
https://aucfree.com/items/u416213801