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森村誠一『続・悪魔の飽食』ニセ写真事件 “生体実験写真”は明治のペスト資料だった

 1982年7月1日発行の『続・悪魔の飽食』は、森村誠一の連載(共産党機関誌「赤旗」掲載)を書籍化してベストセラーとなった『悪魔の飽食』の続編。
 鳴り物入りで発売された本書であったが、核心ともいうべき掲載写真が全く関係のない明治時代の書籍からの盗用であったことを9月14日、日経新聞による本人取材で明らかになる。翌15日、日経新聞は前日の取材内容と合わせてニセ写真事件として報道した。


■自滅した初版本PR

▼【腰 帯】
『衝撃の新事実! 恐怖の未公開! 新たに発掘された事実とペンタゴンの㊙資料で抉る「第731部隊」謎の戦後史』

▼【裏表紙】朝日の筑紫哲也編集委員の推薦文
「動かしがたい記録、一の数々は、どちらが真実であるかを伝えてあますところがない」

▼【森村氏】終章
「この実録をフィクションと読んだ者がいるとすれば、証人(元隊員たちのこと)に対する名誉毀損であり、・・・妄想的に本書を誹謗したものであろう」

「もし誹謗者にて・・・・・良識の一片もあれば、本実録を構成するどの一部分にでも匹敵するような反対資料を示してもらいたいものである」

■盗用した巻頭写真(36枚中20枚)と、共産党赤旗特報部長下里正樹氏による解説文の捏造

*注:写真には『明治四十三四年南滿州「ペスト」流行誌附録寫眞帖』関東都督府臨時防疫部発行年「1912.3」と国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1880517/1/1 のコマ番号を白文字で注記しています。

*『明治四十三、四年南滿州「ペスト」流行誌附録寫眞帖』緒言

緒言「明治43、4年にわたり南北満州を蹂躙せる肺「ペスト」の流行および予防施設の状況は別巻「ペスト」流行誌においてその梗概を叙した るもなおよく文筆のつくす あたわざるものあり 百聞は一見に如かず、すなわち ここに本帖を編纂附録することとなせり 庶幾(こいねがわ)くはこれによりて当時防疫実況の一班を窺知するに足らんや」 明治45年3月 関東都督府臨時防疫部
奉天第一隔離病舎 Isolation House, No. 1, Mukden.

⭕原 本:「奉天 第一隔離病舎」Isolation House, No. 1, Mukden.
❌捏造⑨:安逹実験場 七三一航空班は、約260キロ離れた安逹実験場まで「丸太」を空輸した。実験場にはマルタ小屋があり、実験開始直前の「丸太」に、死出の旅への小休止を与える場所となっていた。

『続・悪魔の飽食』巻頭グラビアNo.9
臨時防疫部遼陽支部  Liaoyang Branch of the Temporary Plague Prevention Office.

⭕原 本:「臨時防疫部 遼陽支部」Liaoyang Branch of the Temporary Plague Prevention Office.
❌捏造⑩:第七三一部隊の"隱れ支部" 大連満鉄衛生研究所建物であるとされる。しかし、元隊員の中には、「奉天(瀋陽)陸軍病院」「新京(⾧春)医大建物」とまちまちの証言がある。37年の歳月は、厳重な秘密のベールにおおわれていた部隊の詳細をも風化させていく。

『続・悪魔の飽食』巻頭グラビアNo.10
奉天停留所停留室内ノ一部 其一 Part of a Detention Room, Mukden Detention House.—No. 1.

⭕原 本:「奉天停留所 停留室内の一部 その1」Part of a Detention Room, Mukden Detention House.—No. 1.
❌捏造⑪:雑居房の「丸太」 第七三一部隊特設監獄には、常時80~150人の捕虜が収容されていた。捕虜の多くは、対日抗戦で捕えられた中国八路軍将兵、対日レジスタンス運動に参加した疑いで逮捕された労働者、学生、知識人であった。なかには無実のハルピン市民や、「就職口がある」とだまされ連れてこられた浮浪者もいた。凶悪犯罪者には、七三一が「死刑執行場」となった。「丸太」の国籍は、中国人、ロシア人、モンゴル人、朝鮮人、ごく少数のアングロサクソン系白人もいた。

『続・悪魔の飽食』巻頭グラビアNo.11
奉天停留所停留人ノ入浴 Detained Persons taking Baths, Mukden Detention House.

⭕原 本:「奉天停留所 停留人の入浴」Detained Persons taking Baths, Mukden Detention House.
❌捏造⑫:部隊特設監獄浴場 男女「丸太」の浴槽は分けられていたが、同時入浴であった。

『続・悪魔の飽食』巻頭グラビアNo.12
⾧春隔離病舎細菌室ノ一部 Bacteriological Laboratory, Changchun Isolation House.

⭕原 本:「⾧春隔離病舎 細菌室の一部」Bacteriological Laboratory, Changchun Isolation House.
❌捏造⑬:細菌研究所より強力な菌株を求めてのデータ分析がおこなわれた。

『続・悪魔の飽食』巻頭グラビアNo.13
大連療病院細菌檢査室 Bacteriological Laboratory, Dairen Isolation Hospital.

⭕原 本:「大連療病院 細菌検査室」Bacteriological Laboratory, Dairen Isolation Hospital.
❌捏造⑭:実験研究室 第七三一部隊には、20余の特別プロジェクト・チームがあり、「丸太」を相手に多種多様な生体実験を実行した。「丸太」の肉片や臓器は、研究室のガラス瓶(写真右下)に入れられ標本となった。

『続・悪魔の飽食』巻頭グラビアNo.14
長春隔離病舎衣類ノ蒸汽消毒 Steam Disinfection, Changchun Isolation House.

⭕原 本:「長春隔離病舎 衣類の蒸汽消毒」Steam Disinfection, Changchun Isolation House.
❌捏造⑮:消毒室 細菌感染を防ぐために、隊員たちの全着衣は一日を終えると蒸気釜に投げこまれ、厳重に消毒された。にもかかわらず、部隊内部の感染発病者、死亡者は多数にのぼった。⾧期保菌者は、部隊第三部(診療病院)に送られたが、1945年8月9日に始まった部隊撤退の際、"処分"されたという。

『続・悪魔の飽食』巻頭グラビアNo.15
北滿地方ニ產スル「タルバガン」其三 The Tarbagan (Arctomys bobac) of North Manchuria.—No. 3.

⭕原 本:「北満地方に産する「タルバガン」その3」 The Tarbagan (Arctomys bobac) of North Manchuria.—No. 3.
❌捏造⑳:ネズミ 北満地方で繁殖能力の高い「クルバガン」と呼ばれるネズミの一種。各種の伝染病媒介の有力"兵器"として飼育されていた。

『続・悪魔の飽食』巻頭グラビアNo.20
哈爾賓露國病院内ノ「ペスト」患者 Pest Patients in the Russian Hospital,Harbin.

⭕原 本:「哈爾浜(ハルピン)露国病院内の「ペスト」患者」Pest Patients in the Russian Hospital,Harbin.
❌捏造㉒:「丸太」の運命・1 「丸太」は二日に三体の割合で"消費"された。写真は、発病「丸太」と、健康「丸太」とを同居させての感染実験光景である。

『続・悪魔の飽食』巻頭グラビアNo.22
鐵嶺ニ於ケル「ペスト」屍體解剖 其一 Dissecting Victims of the Plague,Tiehling.—No. 1

⭕原 本:「鉄嶺に於ける「ペスト」屍体解剖 その1」Dissecting Victims of the Plague,Tiehling.—No. 1
❌捏造㉓:
「丸太」の運命・2 女「丸太」には、梅毒実験および妊娠中・出産後の種々の生体実験が待っていた。解剖される母子「丸太」

『続・悪魔の飽食』巻頭グラビアNo.23
⾧春隔離病舎ニ於ケル「ペスト」屍體解剖 Dissecting Victims of the Plague,Changchun.
⾧春支部公主嶺出張所ニ於ケル遺棄凍結屍體ノ解剖 Dissecting Corpses Abandoned and Frozen, Kunchuling.

⭕原 本:「⾧春隔離病舎に於ける「ペスト」屍体解剖」Dissecting Victims of the Plague,Changchun.
⭕原 本:「⾧春支部 公主嶺出張所に於ける遺棄凍結屍体の解剖」
Dissecting Corpses Abandoned and Frozen, Kunchuling.
❌捏造㉔㉕:「丸太」の運命・3 実験の種類によって、ときに「丸太」の解剖は屋外でもおこなわれた。ペスト菌を「丸太」に感染させることを、七三一では「P攻撃」と呼んだ。細菌戦目的のために、多数の「丸太」が殺されたが、冬季など、死体置場に凍ったまま積まれている「丸太」の脱水死体は石のように硬く、解剖はしばしばハンマーと鑿を使っておこなわれたという。「丸太」の中には卓抜した知識人もおり、七三一隊員に「あと二年で日本軍は総くずれとなり、敗北が始まる」と情勢の展開を正確に見通している者もいた。しかし、どのようにすぐれた人物も、捕虜として七三一に送りこまれたが最後、人間ではなく単なる実験用肉塊にすぎなかった。

『続・悪魔の飽食』巻頭グラビアNo.24・25
鐵嶺ニ於ケル「ペスト」屍體解剖 其ニ Dissecting Victims of the Plague, Tiehling.—No. 2.
撫順ニ於ケル「ペスト」屍體ノ火葬 Cremation of Victims of the Plague, Fushun.

⭕原 本:「鉄嶺に於ける「ペスト」屍体解剖 その2」Dissecting Victims of the Plague, Tiehling.—No. 2.
⭕原 本:「撫順に於ける「ペスト」屍体の火葬」
Cremation of Victims of the Plague, Fushun.
❌捏造㉖㉗:「丸太」の運命・4 第七三一部隊には、石川班・岡本班の二つの病理研究班があり、新進気鋭の 少壮医学者が班⾧として就任していた。なかでも石川班⾧は、「世界生体解剖最多記録保持者」とし て元隊員らの間に知られている。しかし、実際の解剖作業など"汚れた仕事"は、中級・下級隊員が従事 し、上級隊員(医学者)らはもっぱら解剖のデータを入手分析する立場だった。女子供を問わず、解剖さ れた「丸太」(㉖)は、焼却炉で灰となった(㉗)。

『続・悪魔の飽食』巻頭グラビアNo.26・27
哈爾賓ニ於ケル凍結屍體ノ堆積 Piles of Frozen Corpes, Harbin

⭕原 本:「哈爾浜(ハルピン)に於ける凍結屍体の堆積」 Piles of Frozen Corpes, Harbin
❌捏造㉘:「丸太」の運命・5 第七三一部隊の死体置場にはペストに倒れた「丸太」死体が山と積まれてい た。横に立つ隊員の白衣姿は文字どおり悪魔的である。

『続・悪魔の飽食』巻頭グラビアNo.28
奉天淸國管内ノ火葬試驗 Trial of a New Crematory, Mukden.
奉天淸國管内ノ火葬試驗(拡大) Trial of a New Crematory, Mukden.

⭕原 本:「奉天 清国管内の火葬試験」Trial of a New Crematory, Mukden.
❌捏造㉙㉚:「丸太」の運命・6 「細菌戦における細菌散布の方法に三種類が考えられる」(石井四郎訊問調 書)。三種類の方法とは1.謀略的方法による散布、2.航空機からの細菌(爆弾)散布、3.砲弾によ る細菌散布である。石井四郎軍医中将らは、伝染病蔓延のメカニズムを研究し、開発した細菌兵器の 効力を試すため、しばしば謀略を用いて中国東北部の都市・農村に細菌をばらまいた。死者が出ると 「防疫のための出動」と称し臓器標本を取ったのち遺体をその場で"焼却処分"にした。 黒煙と火炎に包まれたまま灰になっていく人間の、洞穴のような目となにかを訴えようとする手と 腕が印象的である。 この写真は石井家に⾧い間秘匿されていたもので、「松花江で焼かれるペスト死体」と説明が書か れている。

『続・悪魔の飽食』巻頭グラビアNo.29・30
⾧春淸國管内火葬場ニ於ケル殘燒 「ペスト」屍體 Partially Burnt Corpes in the Crematory, within the Chinese Jurisdiction, Changchun.
哈爾賓ニ於ケル松花江畔ノ露國火葬場 其二 Russian Crematory on the Bank of the Sungari River, Harbin.—No. 2.

⭕原 本:「⾧春 清国管内火葬場に於ける残焼 「ペスト」屍体」Partially Burnt Corpes in the Crematory, within the Chinese Jurisdiction, Changchun.」
⭕原 本:「哈爾浜(ハルピン)に於ける松花江畔ノ露国火葬場 その2」Russian Crematory on the Bank of the Sungari River, Harbin.—No. 2.」
❌捏造㉛㉜:「丸太」の運命・7 細菌戦の着想の根本に、「日本民族は優秀であり、アジアの盟主である」と のエリート意識、民族排外主義がある。これを裏返せば「アジアの他民族はすべて日本人より劣って おり、細菌戦の犠牲になっても当然である」という思想にいきつく。 七三一に配属された医学者らが、平気で悪魔の所業をやってのけた背景には、こうした日本民族= 優秀、他民族=劣等の思想がある。生きた人間を「丸太」と呼んで怪しまない集団狂気が、日本人を冒した時代であった。

『続・悪魔の飽食』巻頭グラビアNo.31・32
哈爾賓ニ於ケル火葬坑内 其二 Inside View of a Crematory, Harbin.—No. 2.

⭕原 本:「哈爾浜(ハルピン)に於ける火葬坑内 その2」Inside View of a Crematory, Harbin.—No. 2.
❌捏造㉝:「丸太」の運命・8 生体実験材料として"使用"された「丸太」の国籍・年齢・性別は多種多様で あった。写真は細菌戦実験により死亡し、穴の底に投げこまれた「丸太」たち。乳呑児と母親の姿が 涙を誘う

『続・悪魔の飽食』巻頭グラビアNo.33

<引用元>
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■出版に協力した731部隊元隊員の証言

 下里氏の取材に積極的な協力をした元隊員たちのだれもが「本が出版される前、問題の写真を見せられていない」と口をそろえて証言した。

Y・Tさんの証言「今年二月末、下里さんから“航空写真を入手したので、これをもとに部隊の地図を作ってほしい”と電話があった。下里さんは三月初め、航空写真を持って私の家に来た。問題の写真は本が来て初めて見た」

 U・Mさんの証言「私は、森村さんらが中国取材旅行に出かける直前、“あの写真はおかしい。どこから手に入れましたか”と下里さんに電話したが、まいな返事しか返ってこなかった」

K・Mさんの証言「実験をまのあたりに見た私に、下里さんはなぜ、写真を見せてくなかったのか。 見せてくれたら、一目でニセ写真と見抜けたのに」

 下里氏は一体、問題の写真を誰に見せて確認し、あのようなもっともらしい写真説明を書いたのだろうか。

『かくしん (149)』 民社党本部教宣局 [編] 1983-01 p36-37 https://dl.ndl.go.jp/pid/1389847/1/19 より引用

■新聞報道等

1981年09月 元七三一部隊U・N氏、下里氏を”甥”と偽り、戦友会での"潜入取材”に協力

 三人はこのほか、「赤旗」にパートⅠ「悪魔の飽食」の連載が始まった直後の五十六年夏から、下里氏の取材に協力し、七三一部隊について重要な証言をしたり、資料、写真を提供したりしている。中でもU・Nさんは下里氏に頼まれ、五十六年九月、長野県松本市で開かれた元七三一部隊の戦友会に、下里氏を“オイ”というふれこみで自分と同行出席させ、"潜入取材”に協力している。 この戦友会の場面は、パートⅠの二二六ページから二三九ページに記載されており、森村氏も取材経過を書いた「悪魔の飽食」ノート(晩声社刊)の中で、「スリリングな経験」としてこの下里氏の“潜入取材”を紹介している。 

『かくしん (149)』 民社党本部教宣局 [編] 1983-01 p36-37 https://dl.ndl.go.jp/pid/1389847/1/19 より引用

1982年02月20日 下里氏がA氏宅で問題の写真を入手

 下里氏がA氏宅で問題の写真を入手した時期は今年二月二十日。

『かくしん (149)』 民社党本部教宣局 [編] 1983-01 p36-37 https://dl.ndl.go.jp/pid/1389847/1/19 より引用

1982年02月末 下里氏「部隊地図の作成」を依頼

 たとえば、三重県の元七三一部隊兵要地誌班、Y・Tさん(五四) ▽東京の元印刷班、U・Nさん (七二) ▽長野県の元運輸班、K・Sさん(六五)の三人は、下里氏が問題の“生体実験の証拠写真“と同時に入手したという七三一部隊の特設監獄など施設の全容を写した航空写真を見せられ、施設平面図の作成を頼まれた。が、問題の写真は三人とも見せられていない。
≪Y・Tさんの証言「今年二月末、下里さんから“航空写真を入手したので、これをもとに部隊の地図を作ってほしい”と電話があった。下里さんは三月初め、航空写真を持って私の家に来た。問題の写真は本が来て初めて見た」≫ 

『かくしん (149)』 民社党本部教宣局 [編] 1983-01 p36-37 https://dl.ndl.go.jp/pid/1389847/1/19 より引用

1982年04月中旬 新宿ブリンスホテルにて「部隊地図」完成

Y・Tさんはこの航空写真をもとに大まかな地図を作成し、四月中旬に上京。U・Nさん、K・Sさん、それに下里氏を加えた四人で新宿ブリンスホテルに泊まり込み、当時の記憶をたどりながら地図を完成させた。 この地図は、問題のグラビア写真とともに「続・悪魔の飽食」の巻頭を飾る“目玉”で、下重氏が「平面図に関するかぎり、七三一の謎は解けたと思われる」といった説明文までつけているほどだ。

『かくしん (149)』 民社党本部教宣局 [編] 1983-01 p36-37 https://dl.ndl.go.jp/pid/1389847/1/19 より引用

1982年07月01日 「続・悪魔の飽食」刊行


1982年09月14日 改訂版で削除します(森村さん)

(日本経済新聞  9月15日朝刊 23pより)

 著者の森村誠一氏は取材のため中国へ出発する前日の14日夜、成田市内のホテルで日本経済新聞記者の取材に応じ次のように語った。

――これらの写真はどのような方法で入手したのか。 
 森村氏 『悪魔の飽食』の前編を読んだ731部隊の関係者から「ある人物がすごい写真を持っている」との情報が寄せられた。持っていた人物の名前は言えない。本人は写真提供を相当渋っていたようだが、なんとか説得して今年2月末、東京に持参して来てもらって会った。

――その時、写真を見た印象はどうだったのか。
 森村氏 石井四郎中将(部隊長)宅にあったものだと言って石井中将の日記、手紙や旧制高校時代の通信簿などの遺品とともに十数枚の写真コピーを持っていた。こんなにきちんと資料がそろっているケースは珍しく、資料的価値があると思った。

――そのコピーはどういう形で保存されていたのか。
 森村氏 その人物を仮にAさんと呼ぶが、これらの資料は石井中将の兄に当たる石井三男氏の家に移されて保管されていたとAさんは言っていた。コピーでなく原版を見せてほしいと言ったが、亡くなった三男氏の奥さんが外に出しては困るというので、現物のままではだめだということだった。

――そのコピーが本物であると確信した理由は。 
 森村氏 石井家の人が「絶対に外に出してもらっては困る」ときつく言っていた事実があるし、それに写真が部隊上空から撮った航空写真と一緒に出てきたこともある。また石井部隊の元隊員7人に写真を見せて確認してもらったところ、だれも疑いを持つ人はいなかった。このうち、特に部隊全景を写した航空写真は極めて貴重なもので、こうした写真と一緒に出てきた他の写真の真ぴょう性は高いものだと判断したわけだ。それに、元隊員たちも白衣を着た人物をさして「あの人によく似ているな」などとも言っていたほどだ。

――この著書の資料収集や取材はどういう形でやったのか。 
 森村氏 男性秘書に資料入手や取材をさせることもあるが、すべての点にわたって私がチェックすることにしている。今回の写真については、秘書が入手の段階にまでかかわったが、責任はすべて私にある。関東都督府が出したそんな「写真帖」の存在は全く知らなかったし、あの時点では確信をもって掲載した。これらの写真が誤りであると確認された以上、次の版からは削除するよう出版社に申し入れるつもりだ。まったく無関係の写真を読者に提供したことを深くおわびしたい。ただ、写真以外の証言などについては、かなり徹底的に真ぴょう性を確認しており、文章については写真と切り離して考えてほしい。(日経 82.9.15)

『国民政治年鑑 1983年版』国民政治年鑑編集委員会編 日本社会党中央本部機関紙局 1983.11 p1147-1148 より引用 https://dl.ndl.go.jp/pid/11928115/1/603

1982年09月15日 『続・悪魔の飽食』“生体実験写真”は別物、森村さん認める―実は明治のペスト資料 

(日本経済新聞 9月15日朝刊23pより)

 作家、森村誠一氏のベストセラー『続・悪魔の飽食』に関東軍満州第731石井細菌戦部隊の「昭和史に残る蛮行」の証拠として掲載された写真の多くが、実はそれより20年以上も前の明治43年から44年にかけて満州(現中国東北部)で大流行したペストの防疫に関する記録写真集『明治43、4年南満州『ペスト」流行誌附録写真帖』から複写したものであることが14日わかった。森村氏は同日夜、「写真資料は一つ一つ綿密に検討して自信を持って掲載したが、この本の存在には気付かなかった。間違った写真である以上責任はすべて私にある。次の版から問題の写真を削除する」と、全面的に誤りを認めた。一連の写真は「歴史の空白を暴く未公開写真」として掲載されており、今年の読書界に話題をまいた大ベストセラーに汚点を残す結果となった。 森村氏の『続・悪魔の飽食』は今年7月に発表され、発売元の光文社によるとすでに87万部を売ったという。前作の『悪魔の飽食』は56年11月の発売以来189万部(光文社)の大ベストセラーになっている。
 『悪魔の飽食』は昭和8年後関東軍満州第731石井細菌戦部隊が旧満州で行った細菌戦や細菌人体実験の実体を明らかにし、大きな反響を巻き起こした。『続・悪魔の飽食』はこれを受けて新資料を元に書き下ろしたもので、特に「戦慄の新事実、恐怖の未公開写真36ページで歴史の空白を暴く」として、幼児や妊婦の解剖、死体の山などの写真を掲載している。しかしこの巻頭を飾る35枚の写真のうち16枚は、いずれも明治45年3月31日に発行された『明治43,4年南満州ペスト流行誌附録写真帖』(関東都督府臨時防疫部編さん、満州日日新聞社発行)に掲載されたものであることが14日判明した。 たとえば「丸太(続・悪魔の飽食によれば生体実験の“材料”となったロシア人、中国人、蒙古人、朝鮮人捕虜のこと)の運命」と題して幼児らの解剖場面などの写真を掲載しているが、「写真帖」によると、これらの写真は「鉄嶺二於ル「ペスト」死体解剖」となっている。
 写真の誤りに気付いたのは都内の大手会社員。この会社員は郷土史の研究のため数日前、東京・神田の古本屋街を見て回っているうち偶然、「南満州『ペスト」 流行誌附録写真帖」を見付けた。「本をめぐっていると、どこかで見たような写真が何枚もあったので買った。自宅で調べてみると、ちょうど読んでいた『続・悪魔の飽食』の写真と同じなのでびっくりした」と話している。 この「附録写真帖」の「本編」にあたる『南満州「ペスト」流行誌』は東京・北里大図書館に所蔵されており、発行元、発行年月日をはじめ、題字の書体、装丁なども「写真帖」と一致する。 明治43、4年、南満州ではペストが大流行し4万数千人が死亡したといわれる。当時、中国の関東州租借地を統治していた日本の関東都督府はペストに対する防疫対策に奔走しており、この写真集は当時の貴重な記録。関東都督府は民政部と陸軍部から成り、大正8年まで存続していた。

『国民政治年鑑 1983年版』国民政治年鑑編集委員会編 日本社会党中央本部機関紙局 1983.11 p1147-1148 より引用 https://dl.ndl.go.jp/pid/11928115/1/603

1982年09月16日 「続・悪魔の飽食」勇み足 写真20枚、別物 森村さん「新版で削除」

(朝日新聞 9月16日)Wiki「悪魔の飽食」より

1982年09月16日 「続・悪魔の飽食」写真誤用―森村氏の入手時すでに赤十字など消える

(日本経済新聞 9月16日)Wiki「悪魔の飽食」より

1982年09月16日 森村誠一・光文社「お詫び」 

ぼのぼの @masato009ss氏より引用 https://twicomi.com/manga/masato009/1557298611473752065  

1982年09月19日 一面コラム「春秋」それこそ“悪魔の飽食”というもの

(日本経済新聞 9月19日より)

「オドロオドロした写真をつければ読者がとびつくとソロバンをはじいた、とは思いたくない。しかし、写真でつられて買った読者も多いのではあるまいか。事実、このニセ写真が各地の宣伝活動で使われた。・・・・・・もしこれで読者をつろうとしたのなら、それこそ“悪魔の飽食”というものだろう」

『改革者』政策研究フォーラム [編] 1982-11 p38-39 より引用https://dl.ndl.go.jp/pid/2640366/1/23

1982年09月26日 ニセ物以外の写真は建物5点、実験用ガラス器具4点、計算尺等々

(日本経済新聞 9月26日より)

九月二十六日付け日経新聞で井尻千男編集委員が指摘している通り、ニセ物を消して行くと残るのは建物五点、実験用ガラス器具四点、計算尺等々で、「悪魔」も「恐怖」もどこかに消し飛んでしまうのである。

『改革者』政策研究フォーラム [編] 1982-11 p38-39 より引用https://dl.ndl.go.jp/pid/2640366/1/23 

1982年09月30日 成田空港で記者会見

 森村、下里両氏は中国から帰国した九月三十日、成田空港での記者会見で「問題の写真をA氏から手に入れた時、すでに一部が黒くねりつぶされていた」と語った。

『かくしん (149)』 民社党本部教宣局 [編] 1983-01 p36-37 https://dl.ndl.go.jp/pid/1389847/1/19 より引用

1982年10月03日 「私たちは嗅覚をとぎすまして『オカシイ』と直感したものの真贋に食いさがってみたい」

(読売新聞 10月3日より)

「生体解剖」という著書のある評論家上坂冬子氏は十月三日付け読売紙上で、ニセ写真を持ち込まれてへキエキした経験を語りつつ、「私たちは嗅覚をとぎすまして『オカシイ』と直感したものの真贋に食いさがってみたい」と述べ、

『改革者』政策研究フォーラム [編] 1982-11 p38-39 より引用https://dl.ndl.go.jp/pid/2640366/1/23

1982年10月04日 森村氏ほか2名による記者会見

著者 森村氏、日本共産党幹部/赤旗特報幹部長 下里氏、写真仲介者 A氏の3者による記者会見(於:新宿の京王プラザホテル)

記者会見する森村(左)・下里(右の両氏)/謎のA氏
  『かくしん (149)』 民社党本部教宣局 [編] 1983-01 p36-37 https://dl.ndl.go.jp/pid/1389847/1/19 より引用      

 さて、この下里正樹氏は『読売新聞』一〇月五日朝刊では、赤旗特報部長一休職中、というふうに紹介されている。「作家、森村誠一氏の大ベストセラー『続・悪魔の飽食』の巻頭グラビアに掲載された写真の誤用問題で、森村氏と取材パートナーの下里正樹氏が四日(一〇月)午後、東京・新宿の京王プラザホテルで、問題の写真の提供者Aさん(五九歳、千葉県船橋市)を伴い記者会見した。」  (中略) 
 肝心の森村氏自身は、問題について、
「A氏はわざと間違ったものを私につかませる意図はなかったと思う。間違いを見つけることができなかったのは著者の責任だ」(毎日新聞)。
「A氏が証言してくれたことだけでも多としたい。わざと間違ったものを私につかませようとの意図はなかったと思う。これからもA氏から事情を聴き、明らかにしていきたい」(東京新聞)。
「私が間違いを見破れなかった点にすべての問題が発生している。読者に対して、作者の不明をおわびしたい。また、今後、Aさんと個別に話し合い、もう少し事実経過について調査したい」(読売新聞)。
 などと、記者会見で発言した。A氏については、年齢、住所、これまでの言動についてよくわかっていながら、どの新聞も、本人の希望を容れてのことか、実名を明かしていない。

『現代の眼 23(12)』 現代評論社 1982-12 p204-205
https://dl.ndl.go.jp/pid/1771802/1/101

1982年10月の森村とAが同席する会見で、Aは写真に付いていた説明文を塗り潰して森村に提供したと告白した。

Wiki『悪魔の飽食』 朝日新聞10月10日 ナゾ深まる「続・悪魔の飽食」  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E9%AD%94%E3%81%AE%E9%A3%BD%E9%A3%9F#cite_note-nakajima-19 より引用

1982年10月12日 「奉天停留所停留人ノ入浴」写真は白衣の人物に墨が入っている

(サンケイ新聞 10月12日より)

 十月十二日付けサンケイによると、下里氏が今年二月、光文社に持ち込んだ「奉天停留所停留人ノ入浴」写真は白衣の人物に墨が入っているのに、五月三十日付け「赤旗・日曜版」に掲載された同じ写真には墨が入っていない。事実ならば下里特報部長に責任が及びかねない重大な指摘だが、これがサンケイの特ダネになってしまった理由は他紙が「赤旗」との関係を追及しなかったためである。朝日などは「悪魔の飽食」「赤旗」連載されたことはもちろん、下里氏が赤旗特報部長であることにさえ触れようとしない。ここまで新聞は日本共産党をタブーとしているらしい。

『改革者』政策研究フォーラム [編] 1982-11 p38-39 より引用https://dl.ndl.go.jp/pid/2640366/1/23

1982年10月12日 写真提供者Aを隠すために「米軍押収証拠写真」へ

(サンケイ新聞 10月12日より)

同時に、国内で手に入れたニセ写真を「Aさんの身元がわかってはまずいと思った」という理由で「米軍押収証拠写真」に変えてしまう(十月十二日サンケイによる)森村氏の行為を新聞は当然批判しなくてはならない。

『改革者』政策研究フォーラム [編] 1982-11 p38-39 より引用https://dl.ndl.go.jp/pid/2640366/1/23 

1982年10月15日 「本来、ノンフィクション物では、どこか一点でも虚偽があったらそれで全体が信用されないはず」

(読売新聞 10月15日より)

事実、佐木氏の心配を裏づけるようなコメントを山本七平はしている。「提供された資料を判定する自信がないものをやるのは、知らない人の怖いもの知らずのなせるわざ」「あの本を読んでみたが、ある点で、これは? とピントくるものがあってそれ以降、読むのをやめた。これが小説なら一向に構わない。が、読者は、事実として読むわけだから……。本来、ノンフィクション物では、どこか一点でも虚偽があったらそれで全体が信用されないはずのものだ。」そして、続けて『読売新聞』は「・・・・・・と、暗に森村さんのモラルを批判、作品全体の真実性にも疑問を投げかけている」と書いた。

『現代の眼 23(12)』 現代評論社 1982-12 p204-205
https://dl.ndl.go.jp/pid/1771802/1/101  

 一人は佐木隆三で「森村さんは、あまり注意を払わなかったか、功名心にはやりすぎたのではないか」「森村さん個人の問題だが、あれほど多くの人に読まれた作品なのだから、経過を明らかにして、本文の方もあやまりではないかという疑問を持たれないようにしてほしいと思う」と言っている。

『現代の眼 23(12)』 現代評論社 1982-12 p204-205
https://dl.ndl.go.jp/pid/1771802/1/101

<引用資料>

『改革者』「悪魔の飽食ニセ写真事件で朝日とサンケイが対立」 ー「赤旗」の責任に言及できない問題体質ー (鞍馬天狗)

 森村誠一氏のベストセラー『続・悪魔の飽食』(光文社)に大量のニセ写真が掲載されていた事件に関する新聞報道は、実に多くの問題点と欠陥を含んでいたにもかかわらず、まだ教科書誤報事件ほど十分な批判を受けていない。
 確かに『続・悪魔の飽食』という本がニセ写真という汚染情報を大量にばらまいたのは事実である。だが、この本は日本共産党の機関紙に連載された同名のシリーズを前提に成立しており、本の刊行以前にニセ写真の一部は「赤旗」に掲載されていたし、森村氏の取材の手足となったのは赤旗特報部長だった。ところがサンケイを除く新聞は、ニセ写真事件と「赤旗」の責任について一向に報じようとしない。もし報道を手控えているとしたら、教科書誤報と同様に由々しい大問題である。
 ニセ写真事件の新聞報道は、日経新聞の特ダネ(九月十五日朝刊)から始まった。以後の報道ぶりを見ると、サンケイ、日経、読売の報道量が多く、記事扱いも大きいのに対し、朝日、毎日、東京新聞は事件を軽視しているとしか思えないほど記事が少ない。特に際立っているのは、朝日とサンケイの対照的な取り組み方で、教科書問題と全く同じ対立傾向がうかがえることである。
 九月十九日の日経新聞一面コラム「春秋」が、「オドロオドロした写真をつければ読者がとびつくとソロバンをはじいた、とは思いたくない。しかし、写真でつられて買った読者も多いのではあるまいか。事実、このニセ写真が各地の宣伝活動で使われた。・・・・・・もしこれで読者をつろうとしたのなら、それこそ“悪魔の飽食”というものだろう」と弾劾しているのは正しい。「衝撃の新事実!恐怖の未公開写真!」と帯にうたい、グラビアの冒頭に「初公開!これが悪魔の第七三一部隊だ!“生体実験”恐怖の全貌いま明るみに」と記しておきながら、九月二十六日付け日経新聞で井尻千男編集委員が指摘している通り、ニセ物を消して行くと残るのは建物五点、実験用ガラス器具四点、計算尺等々で、「悪魔」「恐怖」もどこかに消し飛んでしまうのである。
 こう考えれば「質」「量」ともに重大なニュースのはずだ。「量」は八十七万部、五億九千万円の売り上げであり、一部二十枚のニセ写真が総計一七四〇万枚に達することであり、「質」の面は「赤旗」特報部長の下里正樹氏が森村氏の「分身」として取材などの「ベアズ・ワーク」(共同作業の意。森村氏の造語)を担当し、「赤旗」という政党機関紙に先に連載され、反戦写真展などの活動に利用されてきたことを挙げれば十分だろう。
 にもかかわらず。朝日新聞の扱いは異様に感じられるほど地味だった。九月十六日付けで日経の特ダネをフォローした時は第二社会面の三段記事、森村氏と下里氏が中国取材旅行から帰国した記者会見などは第二社会面の一段記事にすぎない“冷遇”である。しかも、九月十七日付け夕刊で、写真の一部に墨が塗られ、「人為的な細工」が施されていることを報じながら、「ミス」「誤用」といった故意を感じさせない寛大な表現を選んでいるのはおかしい。三越の秘宝展で「ニセ物」を弾劾した朝日新聞の用語法から判断すれば、誰かが故意に墨を塗って明治時代のペスト防疫活動の写真を戦争中の残虐行為にすりかえた「ニセ写真」はやはり素直に「ニセ物」と呼ぶべきではないか。その点、サンケイが「ニセ写真」と書いている以外には、毎日が九月十六日付け朝刊で「盗用」ときめつけているのを除くと、スクープした日経を含めほとんどが「誤用」としているのはうなづけない。「侵略→進出」と同様に言葉は大切に扱うべきである。
 次に不可解なことは、「赤旗」との関係に言及しないことだ。日経のスクープの翌日付け「赤旗」は日曜版と日刊紙の両方に「ペスト防疫写真」を七回掲載したことを認め、「読者と関係者のみなさん」「迷惑」をかけたことを「おわび」すると同時に、問題の写真を「取り消し」ている。この責任をサンケイ以外の新聞は衝こうともしないのだ。
 十月十二日付けサンケイによると、下里氏が今年二月、光文社に持ち込んだ「奉天停留所停留人ノ入浴」写真は白衣の人物に墨が入っているのに、五月三十日付け「赤旗・日曜版」に掲載された同じ写真には墨が入っていない。事実ならば下里特報部長に責任が及びかねない重大な指摘だが、これがサンケイの特ダネになってしまった理由は他紙が「赤旗」との関係を追及しなかったためである。朝日などは「悪魔の飽食」「赤旗」連載されたことはもちろん、下里氏が赤旗特報部長であることにさえ触れようとしない。ここまで新聞は日本共産党をタブーとしているらしい。
 「生体解剖」という著書のある評論家上坂冬子氏は十月三日付け読売紙上で、ニセ写真を持ち込まれてへキエキした経験を語りつつ、「私たちは嗅覚をとぎすまして『オカシイ』と直感したものの真贋に食いさがってみたい」と述べ、山本七平氏も十月五日付け同紙に「本来、ノンフィクション物では、どこか一点でも虚偽があったらそれで全体が信用されないはず」と断言している。ところが「続・飽食」の裏表紙には、朝日の筑紫哲也編集委員が、この本は「悪魔の飽食」をおとしめようとする動きへの「果敢な反撃」であり、「動かしがたい記録、一の数々は、どちらが真実であるかを伝えてあますところがない」という取り返しのつかない推薦文を書いている。森村氏自身もこの本の終章で、「もし誹謗者にて・・・・・良識の一片もあれば、本実録を構成するどの一部分にでも匹敬(ママ)するような反対資料を示してもらいたいものである」とタンカを切っている。
 上坂、山本両氏の厳しいプロの目を新聞は謙虚に見習わなくてはいけない。同時に、国内で手に入れたニセ写真を「Aさんの身元がわかってはまずいと思った」という理由で「米軍押収証拠写真」に変えてしまう(十月十二日サンケイによる)森村氏の行為を新聞は当然批判しなくてはならない。森村氏は平和と民主主義を守ると提言しつつ、明らかに手段を誤っている。それはむしろ「いつか来た道」の発想であることを、新聞は見破るべきである。でないと、二度、三度と同じ誤りを冒すことになる。
(鞍馬天狗)

『改革者』政策研究フォーラム [編] 1982-11 p38-39 より引用https://dl.ndl.go.jp/pid/2640366/1/23

『現代の眼 23(12)』「続・現代虚人列伝」森村誠一/偉大な『悪魔の飽食』から遁走するベストセラー作家 (中島 誠)

(中略)さて、この下里正樹氏は『読売新聞』一〇月五日朝刊では、赤旗特報部長一休職中、というふうに紹介されている。
「作家、森村誠一氏の大ベストセラー『続・悪魔の飽食』の巻頭グラビアに掲載された写真の誤用問題で、森村氏と取材パートナーの下里正樹氏が四日(一〇月)午後、東京・新宿の京王プラザホテルで、問題の写真の提供者Aさん(五九歳、千葉県船橋市)を伴い記者会見した。」
 要するにAさんが「その時提供した二十四枚中二十枚が、後に第七三一部隊とは全く関係のない明治四十三、四年当時、旧満州(現中国東北部)で大流行したペスト防疫の記録写真集に載っていた写真と判明したわけだった。」
 別の新聞では、誤用写真について「明治四十五年に出た『明治三、四十年南満州ペスト流行誌附録写真帳』に収録された写真」となっている。
 肝心の森村氏自身は、問題について、「A氏はわざと間違ったものを私につかませる意図はなかったと思う。間違いを見つけることができなかったのは著者の責任だ」(毎日新聞)。「A氏が証言してくれたことだけでも多とし
たい。わざと間違ったものを私につかませようとの意図はなかったと思う。これからもA氏から事情を聴き、明らかにしていきたい」
(東京新聞)。「私が間違いを見破れなかった点にすべての問題が発生している。読者に対して、作者の不明をおわびしたい。また、今後、Aさんと個別に話し合い、もう少し事実経過について調査したい」(読売新聞)。
 などと、記者会見で発言した。A氏については、年齢、住所、これまでの言動についてよくわかっていながら、どの新聞も、本人の希望を容れてのことか、実名を明かしていない。
 私は、A氏などに、あまり興味を持たぬ。どこの誰でも私の知ったことではない。
 ただ前記『読売新聞』での二人のコメントとくに山本七平のコメントに注意したい。一人は佐木隆三で「森村さんは、あまり注意を払わなかったか、功名心にはやりすぎたのではないか」「森村さん個人の問題だが、あれほ
ど多くの人に読まれた作品なのだから、経過を明らかにして、本文の方もあやまりではないかという疑問を持たれないようにしてほしいと思う」
と言っている。全く、その通りで私もそうあって欲しいと思う。事実、佐木氏
の心配を裏づけるようなコメントを山本七平はしている。
「提供された資料を判定する自信がないものをやるのは、知らない人の怖いもの知らずのなせるわざ」「あの本を読んでみたが、ある点で、これは? とピントくるものがあってそれ以降、読むのをやめた。これが小説なら一向に構わない。が、読者は、事実として読むわけだから……。本来、ノンフィクション物では、どこか一点でも虚偽があったらそれで全体が信用されないはずのものだ。」そして、続けて『読売新聞』は「・・・・・・と、暗に森村さんのモラルを批判、作品全体の真実性にも疑問を投げかけている」と書いた。

『現代の眼 23(12)』 現代評論社 1982-12 p204-205
https://dl.ndl.go.jp/pid/1771802/1/101

『かくしん (149)』トピックス 「なぜ、事実を歪めたのか」
解決されていない「続・悪魔の飽食」ニセ写真事件のナゾ
 サンケイ新聞社会部「悪魔の飽食」取材班  石川水穂

日経のスクープで
 歴史に「もし」は許されない。だが、もし、あの時(九月中旬)、東京の郷土史家が神田の古本屋で、あの本(明治四十三、四年南満州ペスト流行附録写真帖)を見つけなかったら・・・。そして、その郷土史家が日経新聞に通報しなかったとしたら・・・。森村誠一氏のノンフィクション「統・悪魔の飽食」(光文社刊)は今もべストセラーとして、あの関東軍第七三一石井細菌部隊の、“生体実験の動かぬ証拠“とされた生々しいセ写真を載せたまま、堂々と店頭で売られていたに違いない。二セ写真はやがて既成事実として定着し、歴史は歪曲されたまま、後世に伝えられただろう。
 そんな空恐ろしさを感じさせる「悪魔の飽食」事件は、ともかくも。こうした日経のスクープ(九月十五日付)で始まった。
 私たちはまず、ニセ写真の元になった写真帖を別のルートで手に入れ、「続・悪魔の飽食」の巻頭グラビア写真と綿密に見比べてみた。「ひどい」の一語に尽きた。
 グラビア写真三十五枚のうち。“生体実験“の刺激的なシーンを写したとされる二十枚がすべて、写真帖からひきうつされ、写真説明が変えられていた。この写真帖は、七三一部隊が満州に存在した頃(昭和十年代)より二十年以上も前の明治四十五年に発行され、当時満州で流行したペストに対する防疫活動を記録した写真集だ。つまり、ペスト患者の隔離、治療風景などが、いつのまにか、「生体実験」のシーンにすり変わっていたわけだ。
 たとえば、写真帖ではペスト患者を一時、隔離しておいた「奉天停留所」(停留所はここでは駅の意味ではなく、人を留め置く場所の意味)が、「統・悪魔の飽食」のグラビア写真では「雑居房の『丸太』」(丸太は実験用捕虜の意味)味に変わり、「第七三一部隊特設監獄には、常時八十—百五十人の捕虜が収容されていた。捕虜の多くは、対日抗戦で捕えられた中国八路軍将校、対日レジスタンス運動に参加した疑いで逮捕された労働者、学生、知識人であった」といったもっともらしい写真説明までつけられていた。
 また、単にペストで死んだ患者を解剖している風景がグラビアでは母子「丸太」の生体解剖シーンに化け、ペスト患者の遺体集積所はグラビアで「丸太」の死体置場にすり変わっていた。
 グラビアの写真はさらに、判別できそうな人の顔の目が黒くねられ、防疫活動をしていた人の帽子についていた赤十字マークが逆三角形に黒くぬりつぶされていた。

「歴史の歪曲」は明白
 もはや「歴史の歪曲」は明白だった。
 この時点で、「続・悪魔の飽食」は七月三十日の発売から一ヵ月半、すでに八十三万部を売り尽くしていた。それだけではない。この本が単行本になる前の今年前半、日本共産党機関紙「赤旗」日曜版でも連載自体、森村氏と赤旗特報部長、下里正樹氏(西五)のペアズ・ワーク(共同作業)によるものだった。
 が、森村、下里両氏はニセ写真が明るみに出た九月十五日、次のような釈明文を残したまま、中国への取材旅行に出発していた。
 「問題の写真は、第七三一部隊長石井四郎軍医中将の実兄、石井三男家 千葉県芝山町=と関係のあるA氏宅で発見され、A氏と折衝のすえ、提供を受けたものである。・・・問題の写真が、第七三一部隊の核心ともいうべき特設監獄航空写真とならんで出所したこと。大量の石井中将遺品の一部として発見されたことから、我々は第七三一部隊関連のものである可能性が濃いと判断したが、なお一連写真の信ぴょう性をたしかめるため、元七三一隊員数名にこれを見せ、検証を求めた」
 私たちは、二人が中国へ行っている約半月間、二人の取材に協力した元隊員たもを訪ね歩いた。北は秋田、南は鹿児島まで及んだ。
 その追跡取材の過程で、奇妙な事実が浮かびあがってきた。
 二人が釈明文の中で、「写真を見せ、検証を求めた」としている元七三一部隊員が、どこを探しても見つからないのだ。
 二人のペアズワークとなっても、実際の取材はほとんど下里氏が行なっていたわけだが、その下里氏の取材に積極的な協力をした元隊員たちのだれもが「本が出版される前、問題の写真を見せられていない」と口をそろえて証言した。
 下里氏がA氏宅で問題の写真を入手した時期は今年二月二十日。それから、本を出す七月三十日まで五ヵ月以上の余裕があったというのに・・・。

 証言者からも批判
 たとえば、三重県の元七三一部隊兵要地誌班、Y・Tさん(五四) ▽東京の元印刷班、U・Nさん (七二) ▽長野県の元運輸班、K・Sさん(六五)の三人は、下里氏が問題の“生体実験の証拠写真“と同時に入手したという七三一部隊の特設監獄など施設の全容を写した航空写真を見せられ、施設平面図の作成を頼まれた。が、問題の写真は三人とも見せられていない。
≪Y・Tさんの証言「今年二月末、下里さんから“航空写真を入手したので、これをもとに部隊の地図を作ってほしい”と電話があった。下里さんは三月初め、航空写真を持って私の家に来た。問題の写真は本が来て初めて見た」
 Y・Tさんはこの航空写真をもとに大まかな地図を作成し、四月中旬に上京。U・Nさん、K・Sさん、それに下里氏を加えた四人で新宿ブリンスホテルに泊まり込み、当時の記憶をたどりながら地図を完成させた。
 この地図は、問題のグラビア写真とともに「続・悪魔の飽食」の巻頭を飾る“目玉”で、下重氏が「平面図に関するかぎり、七三一の謎は解けたと思われる」といった説明文までつけているほどだ。
 三人はこのほか、「赤旗」にパートⅠ「悪魔の飽食」の連載が始まった直後の五十六年夏から、下里氏の取材に協力し、七三一部隊について重要な証言をしたり、資料、写真を提供したりしている。中でもU・Nさんは下里氏に頼まれ、五十六年九月、長野県松本市で開かれた元七三一部隊の戦友会に、下里氏を“オイ”というふれこみで自分と同行出席させ、"潜入取材”に協力している。
 この戦友会の場面は、パートⅠの二二六ページから二三九ページに記載されており、森村氏も取材経過を書いた「悪魔の飽食」ノート(晩声社刊)の中で、「スリリングな経験」としてこの下里氏の“潜入取材”を紹介している。
 ≪U・Mさんの証言「私は、森村さんらが中国取材旅行に出かける直前、“あの写真はおかしい。どこから手に入れましたか”と下里さんに電話したが、まいな返事しか返ってこなかった」
  三人以外にも長野県の元七三一部隊細菌、病理班、K.Mさん(六九)は感染実験や解剖に直接たずさわった重要証人で、下里氏に「抗日中国軍幹部の愛人やロシア人女性の解剖」のくだりを証言したほか、同部隊が使った人体解剖学の人など六点の資料を提供した。
 ≪K・Mさんの証言「実験をまのあたりに見た私に、下里さんはなぜ、写真を見せてくなかったのか。 見せてくれたら、一目でニセ写真と見抜けたのに」
 下里氏の取材に協力した元隊員たちは、だれもが“痛み”を背負って長い戦後を生きてきた人たちだった。終戦時に“部隊の秘密は墓場まで持って行け”と命令されながらも、勇気を振るって重い口を開いた人たちでもあった。
 森村氏は「続・悪魔の飾食」の終章でこうした元隊員たちについて次のように書いている。
「この実録をフィクションと読んだ者がいるとすれば、証人(元隊員たちのこと)に対する名誉毀損であり、・・・妄想的に本書を誹謗したものであろう」
 自信に満ちた文章である。だが、森村氏とその取材パートナーの下里氏は、この証人たちやフィクションと読まなかった読者に対し、どれだけの責任を感じているのだろうか。
 森村、下里両氏は中国から帰国した九月三十日、成田空港での記者会見で「問題の写真をA氏から手に入れた時、すでに一部が黒くねりつぶされていた」と語った。さらに十月四日、一部マスコミだけを集めた記者会見で、バスローブにサングラス姿のA氏を登場させ、A氏は「私がマジックでぬりつぶした」と証言した。事件は一見、落着したかに見える。
 だが、肝心のナゾは少しも解けていない。
 下里氏は一体、問題の写真を誰に見せて確認し、あのようなもっともらしい写真説明を書いたのだろうか。

『かくしん (149)』 民社党本部教宣局 [編] 1983-01 p36-37 https://dl.ndl.go.jp/pid/1389847/1/19 より引用

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