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石川水穂氏論文:フォーカス「斬首写真」誤用事件(文藝春秋)

 フォーカスが関東大震災亀戸事件とした斬首写真は全く誤りだった。しかも九冊の本が同じ誤りを犯してる。
                   石川水穂(サンケイ新聞社会部)


 まだ厳しい残暑が続いていた八月三十一日。問題の『フォーカス』(九月七日号)は発売された。おそらく、翌九月一日の関東大震災六十一周年にあわせたのだろう。12ページから13ページにわたって、「“亀戸事件”の現場—関東大震災後に61年を経て公開された現代史の暗部」と題する生々しい裸の斬首死体の写真が掲載され、キャブションでは次のような迫真のストーリーが展開されていた。
 《そのとき平竹辰(のぼる)さん(昭和三十五年死去)の手は、恐怖のため細かくふるえていたという・・・・銃剣で突かれたような傷痕が胸などにあり、斬り落された首の傷口はめくれあがっており、生きながら斬首されたことを物語っていた。まだ体がビクビクと動いているようにさえ感じたという》
 《たまたま亀戸署の裏で目撃したのが、この光景だった。やっとの思いで、二度だけシャッターを押すと、逃げるようにその場を立ち去った。それが他ならぬ亀戸事件の現場だと知ったのは、事件に関する新聞報道が解禁さ
れた十月十一日になってからのことである。公表された写真で、斬首された死体が平沢計七(34=当時)のものらしいと推測できた》
《以来、1度として人目にさらされることのなかった写真は、昭和三十年、たまたま隣家に住んでいた戦後日本共産幹部の一人である岩田英一さんに手渡された。ノーデー事件の首謀者として逮捕された岩田さんが釈放されたお祝いのつもりで贈ったものであるらしい。平竹さんの目撃談は、そのとき、岩田さんに語られたものである》
 ところが、そのフォーカスが発売された日の夜、サンケイ新聞社会部に「誤用ではないか」と指摘する電話が入った。「私もそっくりの写真を持っているが、それには”馬賊惨殺”と書いてある。亀戸事件の写真であるはずがない」――フォーカスの愛読者で本読者でもある元警視庁柔道師範、辻進さん(七二)からだった。
 さっそく、辻さん宅を訪ねた。「これなんです。よく見て下さい」。辻さんはそう言って貴重品箱の中から三枚の赤茶けた手札判の写真を出してきた。「私が軍二等水兵として応召した昭和九年末、練習艦隊の一員として中国の青島に上陸した際、三枚一組で買ったものです」
 一枚は辻さんのいう通り、フォーカスと図柄がそっくりで、右下に「馬賊ノ惨殺」という白い文字が焼きこまれていた。しかも、フオーカスより画像が明るく鮮明で、キャプションにある《銃剣で突かれたような傷痕》はどこにもない。もう一枚は二人の中国人(土匪)の首が柱にくくりつけられている写真で、柱に中華民国十七年(昭和三年)一月十九日付の「膠東防守司令部佈告」が張られていた。また、もう一枚は惨殺死体を見物する人たちの姿がうつっており、いずれも中国人の履物をはいていた。
 この三枚の写真からは、いずれも中国大陸で蔣介石の国民党政府が行った馬賊(土匪)処刑現場であることが容易に想像された。

 フォーカスの対応

 辻さんはフォーカスの写真について「同じ日本人同士があのように衣服を身ぐるみはいで首を祈り落とすという残酷な殺し方をするとは、どうしても思えない」とも語った。
 確か……あの大震災(大正十二年九月)の当時、亀戸署周辺はほとんど被害を受けなかった。それに、当時もむせ返るような残暑の季節だった。そうだとすれば、フォーカスの写真の背景にうつっている枯れ木は何だろう。亀戸事件は大震災直後、南葛労働会の共産主義者、河合義虎氏や純労働組合の無政府主義者、平沢計七氏ら九人の左翼活動家が亀戸署に拘束され、軍隊・警察の手で殺害された事件だ。同じ無政府主義者の大杉栄氏一派が甘粕憲兵大尉に殺された甘粕事件、六千人余の朝鮮人が殺されたとされる事件(司法省調査では二百三十一人)とともに、大震災後に起きた三大残虐事件として伝えられ、ほとんどの歴史教科書にも記述されている。
 それを証明する写真が誤用だとすれば、悪質な歴史の改竄ではないか。
 ちょうど二年前もそんなことがあった。関東軍七三一細菌戦部隊を描いた森誠一氏のノンフィクション「続・悪魔の飽食」(光文社)の巻頭グラビアを飾った生々しい写真二十枚は、明治時代の「ペスト防疫活動」の写真が「生体実験」の証明としてデッチあげられたものだが、そのニセ写真を森村氏のもとに持ち込んだのは当時の日共幹部で赤旗特報部長、下里正樹氏であった。近年、日本の近・現代史の暗部をことさらに自虐的に描く一部の歴史家、ジャーナリストと、それに歯止めをかけようとするグループとの間で論争がつづいている。「続・悪魔の飽食」事件、中韓両国による歴史教科書への抗議、そして改訂検定。さらに南京大殺をめぐる論争。今回それに似たものがある、と感じつつ取材をスタートしたのである。
 まず、新潮社のフォーカス編集部を訪ねた。同誌の田島一昌次長によると、問題の写真はキャプションにも登場する元日共幹部(中央委員候補)、岩田英一氏(七七)から提供されたもので、その際、岩田氏は亀戸事件とする二枚の写真を見せたという。
 一枚は「平沢計七の首」、もう一枚は「北島吉蔵(亀戸事件の犠牲者の一人)の首」とされる写真である。「しかし、この種の残虐写真には気をつけなければいけないと思い、平沢計七らをよく知っている当時の関係者や平沢 研究家(西田勝・法大教授)に見せたところ、一枚の写真だけは『平沢によく似ている」との証言が得られたので掲載に踏みきった。確認をしなかったわけではない。キャプションは岩田さんの説明をもとにして書いた」(田島次長)
 この時、フォーカスが載せなかったもう一枚の写真は、同じ現場を別アングルから撮影したものだった。後に述べるが、実はこの“もう一枚の斬首写真”の方に重大な秘密が隠されていたのである。次に岩田氏を訪ねた。岩田氏によると、「あの写真はフォーカスの説明にもあるように、私がメーデー事件(昭和二十七年五月)で逮捕されてから三年ぶりに釈放された昭和三十年末、隣家の平竹さんから釈放祝いにもらった。平竹さんは大震災当時、東京市社会局職員をしており、“被害状況を調査していた時、たまたま亀戸暑裏で撮ったもので、初めて他の人に見せる写真だ“と私に説明した」、そして、「平竹さんは東京市職員を辞めた後、ずっと賀川豊彦さんらのもとで牧師をされていた人で、ウソを言う人ではない」と言いきった。
 しかし、その平竹氏は二十四年前に亡くなっている。平竹氏の娘にあたる主婦(五九)を捜しあて、写真のことを聞いてみたが、「大震災は私が生まれる以前のことで、父からは何も聞いていません。ただ、小学生の頃、父の引き出しをあけ、悲惨な写真をチラッと見て、父に“口外するな”ときつく言われた記憶はあります。でも、家にカメラはなかったし・・・・・・」という返事がかえってきただけだった。取材を進めていくうち、もう一つの重大な事実に突き当たった。
 フォーカスが「関東大震災後61年を経て公開された現代史の暗部」と題して掲載した問題の写真が二十八年前の昭和三十一年十一月、当時の日共政治局員、志賀義雄氏(八三)が合同出版から出した「日本革命運動の群像」という本の巻頭グラビアにも掲載されていたのである。やはり、岩田氏が志賀氏に提供したもので、グラビアには二枚とも載っていた。そのキャプションは――。《亀戸事件の犠牲者。手前は北島吉蔵(推定)。生きているうち斬った証拠に傷口がめくれ、膝上にも傷、向側死体腹部には二カ所の刺傷がある》《同上。手前の首はひげから平沢計七であることがわかる。大腿部に血が流れている。(この二葉ははじめて発表される)》
 志賀氏はさらに、本文中でフォーカスの上を行くおどろおどろしい説明を書いていた。
《死体には、たしかに銃剣でさしたあとがいくつもある。だが、首がとんでいるのはどうしたことか?  まさか銃剣で人間の首はきれまい。死体ではなく、生体をきった証拠には、きり口の肉が外がわへまくれあがっている》
《ひげのある首はまぎれもなく、平沢計七のものだ。野坂参三(当時も今も日共幹部)、市川義雄(当時の日共幹部で現在は故人)の両同志も私もたしかにそれと確認できる・・・かたわらの胴体の左腕は半分きりとられて見えない。右足はふとももの半分からきりはなされている》
《も一つの首は、私の親友だった北島吉蔵のものだ。私にはたしかにそうだとしかおもえない・・・かれの首のすぐそばにある胴体は胸をわられて肋骨が見える》
《死体はみなはだかだ。銃剣と軍刀で殺され、すっぱだかに衣類をはがれて、荒川放水路にほうりだされたのである》
 だが、前述した辻さんのより鮮明な写真を見る限り、大腿部に血が流れた跡も、銃剣で刺した跡も、右足の太ももを切断した跡も見当たらない。志賀氏は大腿部にうつった一本の雑草を血と見誤り、太ももにうつった影を切断されたものと勘違いしている。
 いったい、岩田氏は志賀氏にどんな説明をして写真を渡し、志賀氏はどんな確認作業を行ったのか――。二人の説明を聞こう。
 岩田氏は言う、「私も平竹さんも亀戸事件の犠牲者の顔を知らない。私は“亀戸事件の写真だ“とだけ言って、日本共産党本部(東京・代々木)の志賀君のところへ持っていった。その時、志賀君の方から“この首は平沢で、もう一枚の首は北島らしい」と言い出した」
 志賀氏の方は、「岩田君の言う通りだが、最初、この写真を見せられた時、首が斬り落とされているし、死体はすべて裸でしょ、本当に亀戸事件の犠牲者の写真かどうか疑問を持った。しかし、平沢をよく知っている野坂が
“そう言えば、平沢によく似ている”というし、北島と親しかった私も、もう一つの首が北島によく似ていると思った。十分な確信が持てないまま、いったんは本に載せたが、後の改訂版では二枚とも削除した」―。

 平沢氏の従弟も「否定」

 つまり、岩田氏が「亀戸事件の写真が見つかった」と言って二枚の斬首写真を日共本部に持ち込み、志賀氏ら党幹部が写真の生首を見ながら、よく似た犠牲者の顔を思い浮かべてみた。これが、二十八年前の日共本部で行われた写真確認作業だった。日共が六全協で、それまでの火焰ビン闘争、山村工作隊といった「極左冒険主義」を自己批判し、「平和と民主主義(*画像切れ)していた頃(*画像切れ)
 フォーカスの写真も、同じ岩田氏が提供したもの。誤用とみて、まず間違いなかろう―との確信を深めた。その一方で、フォーカスの写真に疑問を投げかける証言も次々と本紙社会部に寄せられた。
「私は大震災の頃、亀戸署のすぐ近くに住んでいたが、亀戸にはフォーカスの写真にあるような場所はどこにもない。亀戸署裏も荒川放水路も、あのような場所ではない」ー東京都葛飾区、酒井広さん(六五)。
「私は平沢計七の従弟だが、フォーカスの写真を見て疑問を持った。一見、似ているようだが、ヒゲが違う。大震災の前年(大正十一年)実家の小千谷(新潟県)に帰った計七に会っているから、顔はよく覚えている」―平沢喜七氏(八一)。
 計七氏の長女(六五)も「私は大震災の頃、四歳で、父の顔をはっきり覚えていませんが、残された父の写真とフォーカスの写真を見比べると、鼻が違っているようです」と証言した。
 亀戸事件を記録した当時の公文書も、できる限りあたってみた。《平沢計七等を署内に検束し置きたるに・・・・一斉に革命を高唱・・・擾騒を惹起し容易ならざる事態を生ぜしより、之が鎮圧を警戒中の騎兵第十三連隊第十三中隊に要求したるに、田村少尉の引率せる騎兵は署内演武場前に彼等を引き出し論示したるも、反て軍隊に反抗して遂に刺さるヽの止むなきに至りたり・・・・・》(警視庁の『自警』大正十二年十月号)
《平沢計七外八名の者を監房外に隔離したるも彼等は尚鎮静せず、甚しく抵抗し、暴挙遂に同署内に収容せる約七百六十名の収容者に波及せむとし・・・・当該部隊指揮官は衛戍勤務令第十二に基き部下をして彼等を刺殺せしめたり》(大正十二年十二月二十一日、第47帝国議会での政府側答弁)
 いずれも現場は枯れ木の荒野ではなく警察署の中庭とされ、殺害方法も刺殺であって斬首ではない。で、その取材結果をサンケイ新聞紙上(六月十九日付朝刊)に書いた。
 これに対して、フォーカスは九月二十八日号で反論を試みてきた。タイトルは「平沢計七の斬首写真の怪――“サンケイ新聞・ビンポケ報道“への反証」。岩田氏提供のもう一枚の斬首写真と同じ写真を掲げ、この写真を大震災の直後、吉原公園の犠牲者の写真などとともに五枚一組で買ったという人が現われたから、やはり亀戸事件の写真だ――というのである。
 フォーカスはさらに、キャプションの中で平沢氏の斬首写真を持っていたという故山崎今朝弥弁護士(自由法曹団)、故鈴木茂三郎,社会党委員長の著書を紹介し、山崎弁護士から問題の斬首写真をもらったという老活動家(八四)の話も書いていた。
《老人は当山崎弁護士の事務所によく出入りしていた。「大正13年の夏に山崎さんから2枚の亀戸事件の写真をもらった。一枚は平沢でもう一枚は平沢と一緒に殺された北島吉蔵・・・・2枚の写真は警視庁の人にもらい、写真の現場は中川の河川敷で大島8丁目あたりだと山崎さんから聞いています》
 問題の写真を「撮った」という故平竹氏をさしおいて、現場がいつの間にか亀戸署裏から中川の河川敷(荒川土手)に変わってしまっている。
 それはともかく、この第二の写真について読者から貴重な反論が寄せられた。元関東軍野重砲兵の石田武彦さん(七一)からだ。
「昭和九年夏、満州に派遣された時、海城の山田写真館で買った馬賊の処刑写真十四枚の中にそっくり同じものがある」
 見せてもらったセピア色の写真はフォーカスのそれより、はるかに明るく鮮明だった。
 そして、ころがされている三つの死体のうち手前の斬首死体(フォーカスでは北島吉蔵としている)には一尺近い弁髪らしいものが見え、右端の死体も明らかに後頭部で髪を束ね、三つ編みにして乗らしていた。しかも、その死体の向こうには、おそらく、殺される前にぬがされたと思われる、ぶ厚い入れの服が丸めて置かれている。
 先に述べた「写真に隠された重大な秘密」とは、このことである。フォーカスの暗く不鮮明な写真では、この弁髪がほとんど見えない。弁髪は満州民族(清朝)の風習だ。
 辛亥革命(一九一一年 明治四十四年)のあと、大陸ですら満州の一部にしか残っていなかった風習を大正期の、それも「南葛」の活動家が真似をしていた、という話は遺族や関係者から聞けなかった。
 その上、亀戸事件は残暑の九月初旬に起きている。それなら、写真にある綿入れの服は、どう解釈すればいいのか。
 写真はウソをつかない。だからこそ、フォーカスが活字報道にあきたらない読者の支えで売れているのだろう。今回は、フォーカスにとって皮肉なことに、ウソをつかない写真のおかげでキャプションのウソが暴かれる結果になってしまったようだ。
 同誌からはその後、再反論なり訂正なりのアクションはないが、一応、これで真贋論争のケリがついたと思っていた。ところが、それではおさまらなかったのである。この写真が実は志賀氏の本から抜け出して一人歩きをしている、という事実に出くわした。これも、ほとんどが読者情報だった。

 九冊の本が同じ誤りを

 例えば、小学館、「万有百科大事典」第五巻。フォーカスと同じ写真を使い、《亀戸事件の犠牲者。手前の首は平沢計七のものである》というキャプションがつけられている。さらに・・・
 筑摩書房「記録現代史 日本の百年」巻5
 世界文化社「日本人の100年」巻11
 みすず書房「現代史資料」巻6
 草風館「ドキュメント関東大震災」
 三省堂「画報 日本近代の歴史」巻9
 集英社「図説昭和の歴史」巻2
 筑摩書房「日本社会主義演劇史」
 分かっているだけでも、九冊がこの写真を亀戸事件に仕立てあげている。
「たかが写真ではないか」という。「官憲が混乱に乗じて左翼活動家を虐殺したことはレッキとした事実じゃないか」という意見もある。しかし、この“たかが写真一枚”がコワい。
 例えば、「図説昭和の歴史」は亀戸事件について、こう書いている。
《夜半から朝にかけて数百人がつぎつぎに外へだされ、警察と軍隊の手で虐殺された。はじめは銃殺していたが、銃声が住民に聞こえて不安がひろがるということで銃剣で刺し殺しはじめ、平沢などは丸裸にされて首を斬り落とされた》
 写真こそ使っていないが、「社会科学大事典」(鹿島研究所出版会)では、《深夜にいたって河合・平沢ら10名を同署演武場横の広場にひきだし、斬首など、きわめて野蛮な方法で惨殺した》
 我妻栄編の「日本政治裁判史録・大正編」(第一法規)は《現在残っている写真には、首のとんでしまった惨殺死体がうつっており、すさまじい虐殺を想像させる》
 ついでに左翼文献を紹介してみる。著者は日共中央委員だった故江口渙氏。
《はじめは銃殺にしたが、銃声が外まで聞えるので、あとでは一人一人鉄剣でつき殺した。こうして、まず、百人以上が殺された。だが、そんなこといちいちやっていたのでは、数が多くってめんどうくさい、ということになり、あとでは何十人かをタバにしては、つぎつぎに荒川放水路の四ツ木橋の下までトラックではこんでいった。そこで、新しくできた軽機関銃の効果を試験するための標的に使ってなぎ倒した。ところが、その中で、タマがあたってうまく死なない者ができると、一人一人軍刀で首をきった・・・・その中にほしなくも平沢計七と北島吉蔵の首が出てきたのだ(刀江書院「関東大震災と亀戸事件』》
 「南葛」の活動家九人が亀戸署の中庭で銃剣によって刺殺され、遺体は暗夜、荒川土手に運ばれ焼かれたー少なくとも当時の公文書がそう伝えた亀戸事件は、たかが一枚の写真に引きずられ、場所、殺害方法が変えられていく。その結果、「銃剣による刺殺」とする公文書が色あせて信用を失い、逆に、「つぎつぎに銃殺され」「斬首され」といった誤ったイメージが増幅される。
 誤用を指摘した読者の一人に校長経験者がおられ、「小中学生に及ぼす影響を考えるとそら恐ろしい」と話していたが、まるでウソみたいな話が現実の「歴史」として定着しようとしているのである。
 いったい、こうした「歴史の改竄」の危険を冒している歴史家たちはどう考えているのか――。その一人、「万有百科大事典」「現代史資料」「日本人の100年」と三冊もの本に関わった羌徳相氏はこういう。
「写真は昭和三十年代、鈴木茂三郎さんの社会主義文庫で複写したものだが、写真の真贋は私には全く関心がない。いずれにしても亀戸事件はあったのだから、そんなことは枝葉末節だ」
「記録現代史 日本の百年」で同事件を執筆した今井清一・横浜市立大教授は「あの写真は志賀義雄さんの本から複写したものだ。昔書いたことを今、どうしろといわれても・・・・」。
 それだけいうと、一方的に電話を切ってしまった。写真の信念住も確かめずに引用し、誤用が指摘されると、「枝葉末節」と言い逃れる。それでいて、その枝葉末節の写真によりかかって勝手な想像をめぐらし、歴史を書き
換えていく。いっそ、江口氏のように軽機関統まで持ち出して読み物にしてしまえばまだ救いもあるが、歴史学者の姿勢としては到底許されるものではない。
 今回、フォーカスがこの深く潜航していた誤用写真を引っ張り出してくれなければ、そして誤用を指摘する読者の声がなかったなら、恐ろしいことだが、“弁髪姿の北島吉蔵”が史料として定着し、亀戸事件もずいぶん装いを変えたイメージで後世に伝えられただろう。その意味では、フォーカスに感謝しなければならないのかもしれない


 <引用>そよ風:8月16日「歴史改竄」犯人に迫った石川水穂・産経新聞記者⑥


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