ワタシノ足跡第十五章〜情熱家になる〜


アサヒビールの仕事に携わり2年という
時間が流れました

その頃は派遣社員から契約社員に
アップグレードしていたような気がします

同期の5人入社も3人が様々な事情で退社
2人だけの同期となっていました

収入も御寺の小僧時代と比べたら
10倍くらいに頂いてました

この2年間で
月間売り上げ全国1位や
特命に特化した成果を出し続け

そして、
取材後に事情を明かされましたが
他社のリサーチ会社に依頼した覆面アンケート
「 信頼のおけるビール会社 担当者アンケート 」
で順位は教えて貰えなかったですが
全国3位以内にランキング入りいたとの事で
アサヒビールの社内NEWS
「ミニチュア版 情熱大陸」みたいな取材など
受けることもありました。

当時のアサヒビールは強豪他社
キリンビール、サントリー、サッポロビール
その中でも優位な立場だったと感じました

商談のアポイントも優先的だったり
催事の企画なども同条件なら
アサヒビールを採用のような風潮も
あった気がします。

私はそんな会社の社内で
成果を数多出していたのですから
すこし天狗に成りかけているのを
自分で気付きました

御寺で職務時代に痛い経験があるので
その部分は十分に意識していました

当時の鹿児島の賃金と比べて
身分不相応と私には思えた収入でした

ありがたかったけどこれでいいのだろうか
そんな自分もいました

そんな中、
博多に必ず月イチで会議があり
私は必ず前泊していました

アサヒビールのライバルの薦めもあり
博多祇園山笠の担ぎ手の仲間入りして
福岡の多種多様な仲間との酒を交わす
その為に前泊していました

その中にひとり
『書道家』と出逢いがありました

その書道家が
鹿児島で書道ライヴをやりたい!
という話が酒の席でありました

過去にイベントを多数主催していた経験が
私にはありましたから企画・会場決めなど
プロデュース活動を再開しました

また知人の結婚披露宴のプロデュースなど
企画・主催する事もありました

屋号のような
ペンネームのような

アサヒビールの男というブランドを捨て
誰も知らないアサヒビールのブランドの力に
頼らなく影響のない
新しい名前で勝負してみたいという
想いも湧き出ていました

書道を極める物は「書道家」
料理を極める物は「料理家」

自分は何を極める事ができるのだろう

「自分の中の情熱という気持ちを誇れる」

そういった理由で
【情熱家】
と命名しました

話は飛びますが
私の家には物こごろついた時には
長渕剛さんのレコードが家に数枚ありました

実家が長渕さんの卒業した高校の下宿屋を営んでいる
時期がありまして長渕さんの同級生たちも
実家で下宿していましたので
その関係性でレコードがあったのでしょう

幼き頃から長渕剛さんのレコードを聴き
また社会人になっても下宿生たちは
我が家にちょくちょく食事に来ていて
長渕剛さんの学生時代のエピソードとか
聞いていたので長渕剛さんの存在は
自分にとって遠い親戚のお兄さんのような感覚でした

当たり前のように新曲が出たら買い
何度も長渕剛さんのライヴに行きました

ライヴ会場ではたくさんの熱狂的ファンが
会場周囲でギターを弾き長渕さんの唄を
熱唱している人がたくさんいます

またそれを楽しみに聞いているファンも
たくさんいます。

そのPowerを何か社会貢献に活かせないか

そう考えて
長渕剛さんを愛するプロミュージシャン
そしてライヴ会場で唄う長渕剛ファンを集め
長渕剛トリビュートライヴを開催する

ライヴの収益でギターを買い
鹿児島の児童養護施設に寄贈する
時々、そのライヴに出演した長渕剛ファンが
ギターを教えに施設に行く

例え、勉強が出来なくてもスポーツが苦手でも
ギターで1曲なのか弾けるようになれば
施設の子供達の何かしらの希望の光になるのでは。

そう想い、そう願い
長渕剛トリビュートライヴ
【 気張いやんせNIGHT 】というイベントを
企画主催がスタートしました

そのイベントから正式に
【 情熱家 雄真 】と名乗るようになりました。

そのイベントは収益が出るところか
最初は大赤字でしたが、
それでもギターをイベントの度に寄贈していました

それが当時の
身分不相応のありがたい収入の自分にとっては
以前、仏道入門時に
【誰かの役に立つ生き方をする】
そう誓った私には
禊ぎや世間に対する御布施のように
捉えてました。

つづく



いいなと思ったら応援しよう!