マン・インザ・ミラーとクリシュナが録画して見ている話
バガヴァッドギーターの解説もしてくれるので最近よく聴いているラジオで、
よく人が死に際に見る走馬灯の話をしていた。
なんでもその走馬灯は自分視点ではなくクリシュナ(神)視点らしい。
もうその時点でドキッとしたのだが、要約するとこんな話だ。
私たちが日常の中でする行動は内側(自分自身)から見たら全て正当化しようと思えばできるかもしれないが、
自分の外側(神視点)から見たらどうなの?ほんとにそれでいいの?
という話である。
この話を聞いてふと思い浮かんだのがマイケルジャクソンのマンインザミラーだ。
木を見て森を見ずという言葉があるが、コロナが出てきてから
木を見ることの重要さが身に染みた。
まず近くで起こっている事を観察して、
それから、森がメディアとするともっともっと広い視点、
例えば月から地球を見るくらいの視点が必要なのだろう。
クリシュナは「暗い」とか「黒に近い青」という意味があって、
その化身の肌は映画アバターのように青い。
そしてクリシュナの大元、ヴィシュヌ神の10の化身ダシャーヴァターラにおいて
月曜日を担当するのがクリシュナである。
クリシュナが見ている
=月が見ている
生きていれば日々イライラすることも怠けることも快楽に身を置くこともある。
虫を殺したり焼き肉を食べたりすることもあるだろう。
やりたくないと思いながらお金のために働くことももちろんある。
ひとつひとつの後悔は小さなものだが
人の日常はその塵が積もり積もって今ここに存在する。
瞑想することで昨日より今日、今日より明日と、
その後悔を少しづつ小さいものにしていく。
もちろん日々の行動も伴わなければいけないが。
そして日々瞑想することは
突然岐路に立たされた時に直感を狂わせないようにするための訓練でもある。
"クリシュナ視点で見たときに恥ずかしくない生き方をする"
小さな子供なら親、学生なら先生、会社に入ったら上司、そしてお金‥
わたしたちは自分より権力のある者に従うようにインプットされてきた。
権力者=偉いと思うようになってしまった。
尾崎豊の精神の権利を行使する人は早いうちにこの狂った世界から抜け出すが、
行き過ぎてまた違う狂った世界に走り出すこともある。
バランスが難しい
そして従順な人々は偉い人を見つけて媚びへつらうまではいかなくとも、
さりげなく気に入られようとするぐらいにはなってしまった。
本当は偉い人などいない。
自分の良心ですら嘘をつく、間違える。
クリシュナが偉いわけでもない。
だが人類の最後の砦のような存在だと思った。
そんなことを思いながらマントラのようにマンインザミラーを唱える。