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3.一般病棟からやっと退院

3-1.隔離病棟から一般病棟に引っ越し

9月10日。僕はやっとPCR検査で2回連続陰性となり、呼吸器内科の一般病棟に移されました。引っ越しの多い入院生活ですね。こちらはノーマルな4人部屋で広々としています。前の隔離大部屋はやっぱりちょっと過密でした。限りのある隔離エリアに、数多くの病床が必要だったためでしょう。僕はこの一般病棟で最後のリハビリをやってから、めでたく退院となります。やっとやっと先が見えてきた!そして何よりも嬉しかったのは、9月12日から、売店の使用が許されたこと。もう隔離患者ではありませんからね。さっそく酸素ボンベをゴロゴロ押して、病院の別フロアにあるコンビニに向かいます。何週間も入院しているけど、病院の中を自由に歩くのは初めて。むむ?コンビニの手前に、なんだか中庭みたいに、外につながった出口があるぞ?そういえば数週間、外の空気を吸っていないな。よし後でコーヒーでも買って外で飲もう!

ところがですよ。そんなふうに心は盛り上がるのですが、身体がついていかない。酸素はもちろん吸っているのですよ。しかしそれプラス、僕の身体はまだ、数十メートル歩いたら、立ち止まって休憩が必要。まだまだそんなレベルだったのです。思ったよりも全然ダメ。仕方がありません。病室を出たら、廊下で1回休憩、ナースセンターを過ぎてもう1回休憩、エレベーターで他階に移動してまた休憩、そしてコンビニに突入というふうに決めました。コンビニ通いは楽しいのでモチベーションが維持できます。毎日少しずつ休憩ポイントを遠くして、回数を減らす。数日でなんと1回の休憩でたどり着けるようになりました。コンビニの手前にある出口は、病棟中層階の中庭につながっていました。ささやかな庭園スペースで、久しぶりに外の空気を吸う。周囲には僕と同じように、酸素のカートを押す人や、歩行器でよろよろと歩く人がいる。みんな生命の戦いの真っ最中なのだ。みんな頑張れ!

9月14日。主治医から現状と治療内容などを固めて伺う。ようするに「あなたはこんな状態でした。だからこんな治療をしました。それで今、ここまで治ったよ」ということ。回診時にベッドで簡単に聞くのではなく、きちんと時間を取って、レントゲンや資料を見ながらの説明です。退院に向けたプロセスのひとつですね。肺のレントゲンやCTを見せて頂くと、これは酷い。入院時はまだマシだけど、症状の悪化は少し遅れてやってくる。ICUにいた頃の僕の肺は、驚くほど白濁して、小さく縮んでいる。肺はダメージを受けると、広がらなくなるんですよ。こんなので良く呼吸していたもんだ。この14日時点の肺はだいぶ回復したけど、まだまだ白濁が残っている。これは肺炎ですか?つまり現在進行中の炎症ですか?と聞くと、そうではないと仰る。肺炎でダメージを受けた後、焼け野原みたいなもんで、少しずつ治っていきます、という答え。なるほど、焼け野原か。

レントゲン、スマホで写真撮ってもいいですか?と聞くと、全然問題ありません、これは何より患者さん本人の個人情報なのでという答え。情報へのアクセス権は、まず本人、次に主治医、その次が他のスタッフとなる。今はレントゲンもデジタルだから、退院時にデータ一式をCD-Rでお渡ししますとまで言ってくれる。なんだか時代が変わったよね。昔はレントゲンの画像が欲しいとか言ったら、医者によっては「そんなものどうするつもりだ?」「他の医者にでも見せるのか?」とか言われたもんだ。いまようやくセカンドオピニオンも当然の時代。「当院は第三者に見られて困るような治療はしておりません」「すべてのデータをお渡しします」ですからね。この日の午後からはビデオを数本視聴。呼吸器疾患の患者のための呼吸法とか、自宅での酸素ボンベの扱い方とか。なんぼでも見ますよ。退院に向けた準備ですからね。

9月15日、業者さんがきて、休憩室で退院後に使用する酸素ボンベのサンプルを確認。酸素ボンベは何とあの帝人さんが作っていた。もともと繊維事業者だけど、今ではマテリアル、ヘルスケア、ITなど手広くやっているらしい。ボンベは鉄製ではなくカーボンなので軽いという。なるほど新素材という奴か。いくつもの種類があり、大きさ重さと持続時間で決める。僕は小型タイプを選択。それでも酸素流量3リットルで、3時間半吸えるらしい。東京出張とかがない限りはこれで十分でしょう。運搬はカートでなく目立たないリュックにしました。ボンベ専用のリュックは翌日、病室に届いたけど、こちらはミズノ製品だった。内部にボンベを固定するポケットがついており、チューブの出口もある。ミズノと帝人のロゴが並んでいる。

まあそんなふうに、退院に向けた準備はどんどんと進んでいきました。しかし一方で進まないこともある。僕自身の回復です。何といいますか、人はみな、自分の体力を「だいたいこれくらい」と見積もっている。自分のことは自分が一番良く分かるからね。ところが僕の身体は、コロナ罹患で、想像よりもはるかに傷んでしまったみたい。何をするにしても、自分で思う「これくらいいけるだろ」という見積もりのはるか下になってる。退院直前のリハビリは、階段への挑戦でした。療法士さんに横についてもらい、ボンベで酸素を吸いながら、ゆっくりと階段を上がる。自分のいる階から、1フロア上の階をめざす。これがもう息も絶え絶えなんですよ。全然話にならんやん。こんなんで外に出て大丈夫なのか?しかしです。これは退院して、時間をかけて普通の生活に慣れるしかない。日常生活そのものがリハビリなんです。そう考えるしかないのでした。

3-2.退院してはじめにやることは?

9月17日。僕はついに退院日を迎えました。入院日が8月19日だから、結局1ヶ月入院していたことになるな。長かったな。朝から最後のレントゲン撮影を行い、昼前に退院の手続きをしてお金を支払う。コロナの治療は公費だけど、隔離病棟から出て一般病棟にいた最後の1週間、その分の入院費は保険治療だといわれる。陰性になったらもうコロナ患者ではないから、その後の分は支払えということらしい。1週間の入院治療費、3割負担で約10万円もかかったよ。これは納得できない感じがしたな。酸素ボンベ入りリュックと、大きな紙袋ふたつを持っての帰宅。最後に病室で、僕はこれらの荷物の写真を撮ってインスタにアップした。「この荷物を持って退院。自分の足で歩いて出ていく。そして二度とここには戻らない」というテキストを添えた。

さてここからが僕の願望というか妄想。本当はね、退院したら家に帰らず、そのまま梅田ヒルトンホテルに行くつもりだったのですよ。半分くらいはその気やった。1泊だけでもスイート取って、ゆっくり風呂とマッサージ、夕方からは近隣のレストラン街のモッツアレラバーで、チーズ料理を食いながらたらふくワインを呑むつもり。今回はめっちゃしんどかったし、それくらい贅沢してもええやろと思ってた。どうせすぐにやることもないしね。そしてホテルのバーで知り合いを呼び出して、退院祝いを強要する。みんなワインくらいは奢ってくれるであろう。奢りで呑むワインほど美味いもんはないからなぁ、とか都合の良いことばかり妄想していた。

しかしそこでウイルス学者のSさんからクールなご指摘。「娑婆はまだ非常事態宣言中で、どこにいってもワインなんか呑めませんよ」大がっかり大会である。ワインがないなら、モッツアレラバーなんぞ用はない。家に帰った方がマシである。そんなわけで贅沢三昧の妄想を振り切り、タクシーで地味に帰宅。幸いエアコンは効いていて、腐敗臭はほとんどなかった。偉い!あの極限状態で、うかつにエアコンを切らなかったのだな。それでもやっぱり部屋はゴミだらけ。掃除と洗濯をしている間に息が切れ、ボンベで酸素を吸いながらの作業となる。

そうこうしているうちに、業者さんが酸素濃縮器を設置しにきた。病院から持って帰ってきたのは酸素ボンベ。ボンベと酸素濃縮器はまた別なのだ。小型冷蔵庫くらいのサイズで、家庭用コンセントにつなぐ。空気中の酸素を吸い込んで濃縮して「酸素濃度90%以上の空気」を吐き出してくれる機械である。退院後、自宅にいるときはこの濃縮器で酸素を吸う。電源さえあれば、無制限にいくらでも酸素が吸えるからね。ボンベを使うのは基本的に外出するときだけになる。僕は最初、どうも誤解していた。酸素濃縮器と酸素ボンベはセットになっていて、自宅でボンベに酸素が補充できるものと思っていた。よく考えたらそんなわけないよね。ご家庭で簡単に高圧ガスボンベの充填などできるわけがない。法律的にも問題ありそうだ。だから酸素濃縮器とボンベは全く別のシステムでお互いに無関係。ボンベはボンベで充填されたものが配達され、空ボンベが回収されていくのだ。

さらにリハビリ訪問看護ステーションさんが来訪して、契約をすませる。こちらも退院時に主治医が段取りをしてくださったもので、看護師さんや理学療法士さんが自宅に来てくれる仕組み。看護師さんは体調管理、理学療法士さんはリハビリを担当してくださる。訪問は1回が約1時間、退院直後は週のうち5日。ほぼ毎日のようにどちらかが様子を見に来てくださる感じである。これは心強い。24時間対応の非常電話もあり、もし体調が悪くなったら、電話1本で、夜中でも駆けつけてくださるというではないか。体調不安な独り者には、まさに至れり尽くせりではないか。それはありがたいのだが、まだ掃除も終わらないし、なんか退院したらやたら慌ただしい。ホテルなんか行ってる場合じゃなかったんだね。

3-3.自己報酬は飲酒と決めていた

やがて夕刻になり、周囲は暗くなってきた。さあ、いよいよである。いよいよ何かといえば飲酒。この酒を呑むために、僕は頑張ったのだ。入院生活は何かと辛いに決まっている。耐え抜くためにはご褒美が必要である。それでは何を自分への報酬にするべきか?僕はそれを「退院日の夜の酒」と決めたのだ。僕はそれくらい酒呑みなのであり、この報酬設定は僕をしっかりと支えてくれた。幸いなことに主治医も看護師も誰も、退院後の飲酒を「控えろ」とは言わなかった。肺炎はすでに収まっているし、呑んでいけない理由は特にない。せいぜい「久しぶりに飲むと一気に酔いますから気をつけて」程度である。

あいにくとこの夜、天候が悪く雨がぱらつく。その中で呑み屋めざして自転車に乗る。背中には酸素ボンベのリュック。ところがである。全然ダメなんだよ。自転車が漕げない。なんてことだ!先にも書きましたけど、コロナは僕の想像をはるかに越えて、筋力を奪っていた。リハビリを頑張ったけど、まだまだ全然足りていない。自転車は車と違って、乗る人の姿勢保持が必要である。姿勢保持さえできれば、後は軽くペダルを漕ぐだけで走ることができる。しかし、その姿勢保持ができないのだ。自転車に乗ろうとしても、身体が崩れていく。なんてことだ。体幹の筋力ゼロである。結局僕は呑み屋はおろか、近所のコンビニまでしか辿り着くことができず、小雨の中でコンビニの店頭にへたりこみ、ボンベの酸素を吸う羽目になったのだ。

仕方がないので自宅呑みに切り替え。ぐらぐらの自転車を押しながら帰宅し、コンビニ弁当とウイスキーの水割り。せっかくなのでグレンリベットの12年を引っ張り出す。なんといっても1ヶ月の禁酒明けである。慎重に一口呑んで、30分くらい様子を見る。弁当を食べながら少しずつ少しずつ呑む。しかし結局この夜は、水割り1杯で沈没してしまった。そして自宅で誰にも気兼ねなく爆睡。1ヶ月ぶりの爆睡だった。

物語はどこかで区切られる。闘病記なら退院は大きな区切りになる。しかし現実の人生は、ずっとつながった意識でできている。途切れる時は死ぬ時だ。翌日からも僕の意識はつながって続く。酸素濃縮器と酸素ボンベの扱い習熟。ほぼ毎日のように、夕刻には訪問看護またはリハビリ。仕事はまったくできないが、毎日必ず何かの用がある。ようやく念願の床屋にも行った。退院したのは9月17日だけど、結局9月中は、ほぼ何もできなかった。夜に食事に出るのも酸素ボンベ持参だった。10月以降もリハビリや通院が続く。それでも10月半ばには酸素濃縮器とボンベを返却し、酸素と手を切ることができた。

3-4.風邪とは違う強烈な後遺症

さてここでいわゆる後遺症について、まとめて書いておきましょう。コロナの症状、後遺症としてよく言われるのが「味覚障害」です。僕の場合、味覚の異変は、発熱して10日くらいで現れていました。味覚障害といっても、味覚が消えるわけではありません。それやったらまだ全然マシです。「不味くなる」んですよ。いろいろな食物がゲロマズに感じるようになる。あまりの不味さに食べることが苦痛で、何も食べたくない。とても恐ろしいことです。コロナウイルスは「食欲を壊す」のです。肺炎やら免疫異常やら血栓だけではない、食欲の面からも人を殺しにかかってくるのです。

しかし幸いなことに、不味くならないものもあった。コンビニで売られているプロテイン飲料。ココア味とバナナ味。それぞれプロテイン15g配合。これらはなぜか従来どおりの味でした。自宅療養の最後の数日、僕はこの飲料を大量に買い込み、毎日飲んで命をつないでいました。その後、呼吸困難で入院してICUに。ICUでは点滴だけで食物の摂取はありません。ICUの最終段階でおかゆから食事再開。毎日毎日、おかゆと副菜、牛乳、バナナ。まるで子供の学校給食のようなメニューでした。大人になってからは牛乳なんてめったに飲みません。それをしみじみ味わい「ああ牛乳ってこんな味やったなあ」「バナナってこんな味やったなあ」と思い出す。

それは不思議な体験でした。僕の食欲は一度は完全に壊れて、何もかもゲロマズでした。しかし5日間の点滴生活を経て、おかゆから再スタートしたとき、なぜかゲロマズ感は出てきませんでした。僕はいわば、学校給食から味覚を再確認して、再構築したような感じでした。1周間ほどでおかゆは白飯に変わり、ごま塩やフリカケかけてバクバク食べるようになる。僕は病院のご飯に好き嫌いはいいません。病気と戦い回復するための武器ですからね。常に完食です。そして退院する頃には味覚障害は跡形もなく消えていました。本当に助かりました。数ヶ月単位で味覚障害が残る人もいるようですからね。

コロナの後遺症として「脱毛」もよく言われます。僕はこれもありました。どちらかといえば退院後に出てきたかな。もともと歳が歳だから贅沢はいえませんが、洗髪時や枕もとなどに抜け毛が目立ち、特に前頭部は地肌が透けてみえるようになりました。しかしそもそも抜け毛は他の病気でもある後遺症。ようするに人体が生命の危機に瀕したとき、毛髪のターンオーバーより生命維持を優先するという仕組みによるもの。だからコロナに由来する脱毛は、回復後半年くらいで生えてくる、という話もあるのでしばらくは様子見です。何とか復活して欲しいものです。

そしてもうひとつの大きな後遺症、それは息切れでした。息切れといっても、世間一般でいう息切れとは違います。普通にランニングなどで息切れした時は、明らかに苦しい感覚があり、息が整うにつれて苦しさが薄れてきますよね。しかしコロナ後遺症の息切れは違って、そんなに早く回復はしない。いくら深呼吸を繰り返しても全然吸えない。ずーっと苦しい感じ。そりゃまあそうですよね。肺そのものがやられているのだから。だからうかつに激しい運動などしてしまうと後が大変。いつまでも苦しくて動けない感じになる。おそらく血中酸素濃度モニターの数値は80代に落ちている。これは脳細胞が死んでいく数値だから恐ろしい。すなわち酸素ボンベの携帯が不可欠で、動くときにはちゃんと酸素を吸わないといけない。

3-5.僕の免疫はどうなったの?

このようにして僕はコロナに罹患し、重症患者となり、そこから回復しました。ということは免疫がついたはずです。どれくらいの免疫がついたんやろ?それは素朴に興味のあるところですが、残念ながら大阪府の標準治療では、免疫の測定まではやってくれません。自費で構わないから調べる方法はないのかな?学者のSさんに聞くと、「中和抗体の測定」を教えてくださいました。免疫細胞が異物を排除する方法としては、おもに免疫細胞自身が直接相手を攻撃する方法と、抗体を作り出して攻撃する方法があるそうです。抗体にはウイルスに取りついて弱体化させる性質があり、抗体の中でも、ウイルスの感染力また毒素を中和し、感染や発症、重症化を防ぐことができる抗体を「中和抗体」と呼びます。この中和抗体は血液検査で測定できるとのことでした。

コロナウイルスの中和抗体は、罹患してすぐにできるわけではありません。おそらく罹患後10日くらいをピークに産出されます。僕がコロナに罹患した8月7日から考えて、8月の終わりに中和抗体は測定可能だったと思います。しかし残念ながら、僕が入院した医療センターでは、中和抗体の測定はやって頂けない。そこでウイルス学者のSさんに相談して、9月の退院後、すぐに自分でクリニックに行くことにしました。Sさんが最初に教えてくださったクリニックは東京でしたが、さすがに退院後すぐに、酸素ボンベを抱えて上京するのは不安がある。今はもう大丈夫ですが、当時は駅の階段すら脅威であり、移動にどれだけ時間がかかるか分かりませんでした。その旨をお伝えしますと、Sさんは今度は大阪市内のクリニックを探してくださいました。そこはタクシーですぐに行けて助かりました。

退院の1週間後の9月24日。僕は大阪市内のクリニックで、中和抗体の検査を受けました。数日後に出てきた結果数値は「6570」でした。これは?多いの少ないの?ですよね。この時に使って頂いた検査薬はアボットというメーカーのもので、陽性陰性の判定値は「50」でした。つまり数値が50を越えていれば陽性であり、「抗体を持っている」とされます。その意味では6570の僕は、間違いなく中和抗体を持っています。しかし検査してくださった医師によると、抗体はあるが割と普通の数値のようでした。抗体値は個人差がとても大きくて、人によって100倍以上の差が出ることもある。そして「この数値を越えたら安心」とか「感染しない」という明確な基準はなくて、いくら抗体値が高くても、感染する確率はゼロにはならないようでした。なんだよ、重症化してあんなに大変だったのに、普通の数値なんか。何だか物足りなさを感じた僕は、その後のワクチン接種の時も、中和抗体を測定することにしました。

ワクチンの順番待ちをしている間にコロナに罹患し、入院する羽目になった僕ですが、退院してみるとやっと自分の順番が来ていました。コロナ治療の主治医にも相談して、ワクチン接種の許可をもらい、10月13日に1回目の接種を受けました。僕が接種してもらったワクチンはファイザー社のもので、腕の痛みはありましたが、発熱などはありませんでした。ワクチン2回目は3週間ほど先の予約です。ということは、2回目接種の直前に、もう一度抗体の検査を受ければ良い。それで「コロナ罹患+ワクチン1回」でどれだけ免疫が上がったかが分かります。2回目の検査結果の数値は「26000」でした。おお!おお!やっと来たぞ!コロナ罹患のうえにワクチンが重ねて効いて、2万越えの数値が出てきたぞ!そして僕は11月2日にワクチン2回目の接種を受け、約1ヶ月後の12月7日に3回目の抗体検査を受けました。これで「コロナ罹患+ワクチン2回」の免疫が分かる。検査結果の数値は「59000」。ドカーンと来ました!

どれくらいの中和抗体が新型コロナウイルスの発症防止に十分なのかはまだ分かっていないようですが、この「59000」は、スーパー免疫状態、無敵状態と言ってもおかしくない数値とのことでした。時間とともに免疫は下がるけど、これだけの数値があれば、しばらくは大丈夫。仮にワクチン3回目が必要になっても、次は前のような順番待ちはないだろう。大変な目にあったけど、とりあえず僕はコロナについては、克服できたと思って良さそうだ。

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