弱視と難聴があるわたしの妊娠・出産・子育て⓵ 妊娠編 「本当に産まれてくるのかな?」
わたしは両目0.01~0.02ほどの弱視と、会話の聞き取りが悪い難聴で、オーディトリー・ニューロパシーという障がいがある。
そんなわたしの妊娠・出産のお話を、少しずつ書いていきたいなと思う。
今回は、妊娠時のわたしの気持ちや様子。
1,妊娠発覚1週間前 胃腸炎と思われる症状になる
2015年1月、妊娠がわかる一週間ほど前、わたしは一日中身内のお見舞いで病院に行っていた日の帰り道、電車内で酷い腹痛に襲われ、途中下車をして近くの病院にタクシーで行った。
もがき苦しむほどの腹痛、遠のく意識のなか、口のなかにチューブのようなものを入れられ、治療を受けた。
数時間治療をし、おそらく胃腸炎だろうとの診断が下されて、少し落ち着いてきたため、タクシーで帰宅。
数日間、具合が悪い状態が続き、寝込んでいた。
だけど、数日すると調子がよくなってきたので、その後は病院には行かずに、普通に出勤した。
あとから考えると、あれは本当に胃腸炎だったのか?
妊娠と関係あったのか?そう思うことがある。
2,妊娠発覚
胃腸炎らしき症状から一週間後、妊娠していることがわかった。
わかったけれど、わたしが受診した産婦人科のお医者様は、びっくりするくらい淡々とお話する方で。
ドラマだったら、
「何週目ですね。おめでとうございます!がんばりましょうね✨」
とにこやかに祝福の言葉を述べてくれる場面のはずなのに、
「あ~いるね。うん、でもこれからの成長次第だからね。うん」
と、なんともあっさりとしていて。
「産まれるかなんてわからないよ?」
って言われているような、そんな反応だった。
だから、わたしは全然妊娠をした実感がわかなかった。
そんな風に、妊娠していること自体半信半疑だし〈お医者さんはそう言っているのに〉、妊娠していたとしても産まれてくるという気持ちがすぐにはわかなくて、ぼーっとしたような気持ちでいた。
「やったぁ!赤ちゃんだよ~!」
そんな大喜びして跳ね上がって喜ぶ姿をずっと想像していたから、その他人事のような気持ちに戸惑いがあった。
3、弱視のわたしと妊婦検診
最初は赤ちゃんがお腹にいるという自覚がまったくなかったわたしだけど、検診のたびに赤ちゃんが無事成長していることを知れて、だんだんとワクワクする気持ちが出てきた。
少しずつ、少しずつ、赤ちゃんが人間らしい形に変化していく様子が嬉しくて、病院でもらったエコー写真を家族に送ってみんなで喜んだ。
弱視のわたしは、検診で診てもらうとき、遠くに先生が見るカメラがあるけれど、寝ながらだとそれが見えなかった。
先生は、そのカメラを見て、「元気に動いているね」とか、「ほら、こっち向いてるよ」とか説明してくれたから、あとで写真を見て満足していた。
満足していたけど、どこか遠慮した気持ちもあったのかなと思う。
でも、いまおもえば、スマホでも持って、
「弱視で見えにくいので、スマホのカメラで大きくしてここから見てもいいですか?」
と、寝ながら見ることの許可をもらったってよかったかも、だって見える人は寝ながら見てたんだから!と思ったりもする。
これから、赤ちゃんを産む弱視には、わたしみたいに遠慮しないで、せっかくだからスマホで見るとか工夫してみたら思い出になるかもしれないよと伝えたい。
一瞬一瞬のわが子の成長を見る権利は、だれにでもあるのだから。
4,赤ちゃんがお腹のなかで動くようになって
安定期と呼ばれる5か月を過ぎると、わたしの赤ちゃんも元気に動き回るようになった。
息子はお腹のなかにいたときから、びっくりするほどのやんちゃくん。
お腹のなかで運動でもしているんじゃないかな?と思うほどの、暴れん坊ぶりを発揮。
最初は穏やかな動きだったけれど、そのうち毎日お腹を元気よく蹴り、ときに回転し、しゃっくりをする。
しゃっくりの多さには驚いたな、いつもしゃっくりをしていた。
蹴ってくるときは、「イタッ!」と思わず声が出てしまうほどで…周りに驚かれたことを覚えている。
だからみんな、口々に「絶対男の子だよね…」と言っていた。
妊娠7か月ごろ、男の子だとわかって、「あ~やっぱりね~」とクスっと笑った。
5,それでも産まれてくるのかな…?その理由
元気にお腹のなかで成長しているのはわかるのに、安産祈願に行っても、出産準備を進めていても、どこか不安な気持ちがあった。
わたしがなぜそんなに不安だったのか。
それは、20歳のときに、診断名は伏せるけれど、赤ちゃんを授かるのは奇跡だと言うことを言われていたから。
その診断では、1人授かれば2人・3人と産む人も多いそうだけど、1人目を妊娠・出産することが奇跡の確率で。
妊娠できても、無事に産まれてくるのかもわからないし、未熟児の可能性もある。
それを20歳のときに伝えられ、ショックを受けたことがあったから、わたしは無事に産まれるまで信じる事ができなかったのだ。
ちゃんと産むことができるのか不安に思いながらも、準備は着々と進めなきゃいけない。
引っ越し・出産準備・妊婦検診・里帰り…
わたしは、あまり期待しすぎないように、気持ちを抑えながら、出産に向かって日々を過ごしていた。
6,ヘルパーさんの契約をする
同じ弱視の友達に、ヘルパーさんを利用したら心強いよ、という話を聞き、わたしは人生で初めて、ヘルパーさんと契約をすることになった。
出産後、家に来てもらい、家事を手伝ってもらったり、公園に行くときに付き添ってもらったりするために。
1日2時間午前中の契約。
初めての子育てで、どんな生活になるのか全く想像がつかなかったから、最初はヘルパーさんと契約することも不安だった。
でも、出産後は間違いなくヘルパーさんに助けられたから、あのときの決断は大正解だった。素敵な出会いがたくさんあったから。
7,里帰り出産のため実家へ
妊娠8か月ごろから里帰り出産をするために、実家へ。
出産までの2か月、急にお腹が痛くなったりして、病院に行く日もあった。
それでも、産まれてからは大変なんだからと、親しい友達に会ってお茶をしたり、お散歩をしたり、リラックスして過ごすように心がけた。
8,祖母とのお別れ
出産予定日のわずか12日前、わたしの母方の祖母が亡くなった。
祖母は認知症があったけれど、身体は元気で、突然のことだった。
そして驚いたことに、祖母のお誕生日の日の朝方の旅立ちだった。
「97歳までは生きるよ」と家族に言っていた約束通り、97歳のお誕生日に。
出産直前で遠くに住んでいたため、わたしはお別れに行けず悲しくてたくさん泣いた。
「たまげた、たまげた」
「リコちゃんはめんこい、めんこいね」
が口癖だったおばあちゃん。目がクリっとしててかわいいおばあちゃん。若いころ宝塚で歌っていたと自慢していたおばあちゃん。わたしは大好きだった。
わたしたち家族みんなに悲しみの時間が流れたけれど…
わたしはがんばって赤ちゃんを産まなきゃいけない。
あまり深い悲しみに沈みすぎたら、赤ちゃんに会えなくなったらもっともっと悲しくなる。
すごく悲しかったけど、大好きなおばあちゃんもきっと天国から孫の出産の報告を楽しみにしていると思うから、わたしはがんばって産もう。そう心を強く持った。
9,出産予定日からいくら待っても産まれてこない
そして予定日がやってきた。
でも、一向に産まれる気配がない。全然産まれそうにない。
「まだまだだね」
お医者さんにもそう言われ、わたしは毎日たくさんお散歩をしたり、掃除をしたりして、赤ちゃんが産まれてくるのを待った。
実家にいるこのnoteにもよく登場する祖父も、しびれをきらし、
「リコちゃん、まだかな?」
「そろそろだろ?まだかい?」
と毎日聞いてきた。なぜかわたしが苦手なトマトジュースを飲んで頑張りなさいと1ケース渡された。飲めない…。
出産予定日から1週間経っても、赤ちゃんはお腹にいたがるので、入院することになった。
入院して、2日ほど、バルーンを使ってみたりして、なんとか赤ちゃんが出てきやすいようにがんばった。
でも、赤ちゃんは出てこようとしない。
ちょっとキツめの看護師さんに
「お腹どう?痛くなってきた?」
と言われ、
「だいじょうぶです!!」
と答えたら、
「いや!痛くならないといけないでしょ!」
と言われた。
そんなこと言われても、痛くならなくて…たしかにだいじょうぶですはおかしいけれど、とだんだん辛くなってきた。
そして。
妊娠中の、ずっと抱えていた不安が頭によぎった。
わたしは、一人病院のベッドで泣いていた。
一晩なかなか眠れずにいるうちに、なんとなくお腹が痛みだした。
なんだか具合も悪い。ナースコールを鳴らしたら、看護師さんが飛んできた。
熱を測る。37.5。
お腹の赤ちゃんも見てくれた。
お医者さんと看護師さん、助産婦さんが集まってきて、なにか話している。
「赤ちゃん、苦しいよって、お腹のなかで言ってるから、緊急帝王切開にしたいと思います。よろしいですか?」
心臓が飛び跳ねた。わたしは「はい…」と言ってから、ずっとしくしく泣き始めた。
そして、家族の
「だいじょうぶだよ!がんばってね!!」
という声を聞きながら、オペ室に入って行った。
***
〈出産編に続く〉