〜演劇的に生きれば楽になれる〜
小学校の演劇会で、中学校の合唱コンクールで、大真面目にやれる、超真剣になれる人間と真剣になれない人間がいる。
それと同じようにサラリーマンになれる人間となれない人間がいる。
私は後者でサラリーマンでもない。サラリーマンというモノにずーと違和感を感じてきた。それは合唱コンクールを大真面目に歌っている人への違和感に似ている。
あるいは社会に対する違和感、あるいは家庭に対する違和感にも似ている。
自分がやっていること、とりわけ自分で選んだわけでもないことをやっている時、理由もわからずやっていることに疑問を持たないのかな?という疑問だ。
もっとシンプルにいえば「嘘」が嫌いだ。
なんでそうしないといけないの?と思うことが無限にある。
「いつもお世話になっております〜」とかいちいちさ、要件だけ言えよ。
Twitterの「FF外から失礼します」とかさ、なにアレ笑
お笑い芸人ダウンタウンはコントをやっている最中に自分で自分を笑ってしまう芸風(オレらは一体何をやっとんねんw)
を発見したわけだが(今や当たり前の芸風だが、彼ら以前にこんな斬新な発想はなかった)まさにそれ。
キミが社会に出てやっていること、ネクタイ締めて満員電車に乗って、敬語を覚えて頭を下げて、嘘をついて…嫌で嫌でしょうがないことやってる。
それはコントなの?自分がやっていることに笑えてくるときない?
そんなことを考えるのは子供だ、捻くれ者だ、頭でっかちなだけだ、
周りがみんなやっていることだから、我慢しなさい。あなたも同じようにやる。それが当たり前で疑問の余地はない。
確かにそれが生きる近道だ、楽な道だ。わかってる。それでも、あえて遠回りしたい。
遠回りする人のために、文学がある。
●サミュエル・ベケット「ゴドーを待ちながら」
サミュエル・ベケットが不条理演劇の代表作と言われる「ゴドーを待ちながら」を書いたのは1940年代の後半。
ちなみに不条理文学の代表、カフカの「変身」はだいぶ前の1915年。ニーチェが「神は死んだ」と書いたのは、さらに前の1885年ぐらい。
神が死んで現代が始まり、不条理が生まれた。
「ゴドーを待ちながら」の内容自体は別に全然大した話じゃない、ウラジミールとエストラゴンという乞食が、なにをするでもなく、
くだらない悪口や意味のない会話を延々とやりあったりしているだけ、ホントーに意味のやりとりが延々続く。バーカとか死ね〜とかそんなレベルの。
ストーリーもほぼない。舞台にあるのは一本の枯れ木だけ。それで少年がやってきて、「ゴドーさんは今日は来ません」と伝えられる、どうやら二人はゴドーとかいうやつを待っていたらしい。
ウラジミールとエストラゴンは途方に暮れる。あーあ、”今日も”ゴドーは来なかったと。じゃあ明日は?
彼らにはやることもなければ、目的もなく、金もなければ、希望もない、ならどうしよう?となる。「自殺でもしようか?」うーん… もうちょっとだけ待ってみるか。
そこで一幕が終わり、またはじめから同じことを二幕で繰り返す。当然同じ結末を迎える。終わり。
なにそれ。それがどうして、不条理の最高峰として扱われているの?
確かに、つまらない。実際、ほどんどの人はナンジャコリャという反応だったそう。
でも後から後から、色んな人があーでもない、こーでもないと解釈しだした。どんどんどんどん解釈が積み重なって行った。
本当に無限に解釈がある。一番よく言われるのがゴドーは"GOD"だとかね。(そのハナシをすると一生終わらないので省きます、よかったら検索してみて)
とにかく解釈を無限に生み出す装置なんだって。なるほど私も、その加担者だ。
でも、実は全然難しくないと思う。むしろ恐ろしいほど身近でありふれたハナシだと思う。
何かを待っている人、あなたの周りにいませんか?あるいはあなた自身が。
実は自分にはもの凄い才能があって信じられないような大成功が待っているかも。
ものすごく素敵な恋人ができるかも。王子様が迎えにきてくれるかも。
宝くじが当たって億万長者になれるかも。
戦争が始まるかも。隣の国が攻めてくるかも。大災害が起こるかも。隕石が落ちて地球が滅びるかも。
かもかもかもかも。
実はストーリーなんかなんでもいい。ユートピアでもディストピアでもなんでもいい。
とにかく今の自分を根底から覆すような一大イベントを、待って待って待ち焦がれている。
でも、待っている何かは往々にして、来ない。それが世の常、無い無い尽くし。当然満たされない。全然満たされない。
映画を観るのも、小説を読むのも「来ないこと」を体験したいからだ。
それはある意味不幸だし不条理だ、ウラジミールとエストラゴンのように、何のストーリーもない舞台に立っているのと同じで。
結局やることといえば、自分と同じようなヤツと意味のない話、くだらない事を延々くっちゃべっているだけ、アイツはバカだ、オレは死にたい。
それぐらいしか思いつかない、「あーあ早く世界が終わらないかな」そう言う人、いるでしょ。
出会い系アプリで女の子が何もかも奢ってくれる都合の良い男を探す行為を「神待ち」と言ったりするらしい。
それなんかも、まさに「ゴドーを待ちながら」的じゃないか。
ああ、虚しい。
そうだ、その「何もなさ」こそが現代なのだ。
だって皆が心から神様を信じていれば、”信仰”という美しいタイトルの舞台を、舞台であることすら疑いようもなく、皆で同じように真剣に大真面目に演じていればよかったのだから。それは幸せってことじゃないのか。
ああ、そんな素敵な素晴らしい舞台がなくなってしまった。どうして神を殺したの?ねぇ私たちはどうすればいい?
サミュエル・ベケットの視点は鋭い。人生、人間を演劇的に捉え、それを演劇で表現する皮肉。
別の言い方をすれば、タネ明かしをしちゃった。
ならば私たちは、ひとりひとりが自分で自分の演劇の舞台を用意して、タイトルも用意して、演劇をしないといけない、
どんなタイトルをつけたって、どんなシナリオを描いたって自由なんだけど、それができない人もいる。出来ないならそりゃ待つしかない。来ないのに。
辛いよね、来ないものを待つほど辛いことはない。
でも演劇をする自由もあるよ。演劇に酔いしれる自由もある。実は、選び放題かもね。
舞台なんてそもそもないなんて言いっこなし、逆に、もういっそ、嘘みたいに舞台を演出してみれば?とことん演劇してごらん。自分で作った舞台を。
虚しい?もしかしてとっても楽しいかもよ?それ以外に幸せになる方法ってないんじゃない?まぁ、好きにしなよ。
うーん、なるほどね。
私が抱いてたモヤモヤの正体がわかった気がします。ベケット先生ありがとう。
演劇ね、そういえば、横文字ばっかり並べたてる意識が高いやつとか、全身ブランドでがっちり固めている女とかって、ちゃんと頑張って舞台を演出してるんだな、偉いな。自己中とか、エゴイストとか非難されても、世界は自分を中心に回っている。だって私が主役だもん!その通りじゃないか。自分の舞台は自分で作るんだから。
嫌いなあいつ、苦手なアイツ。どうしてあんなに嫌なヤツ、ムカつくのってやついるけど、もしかしたら、必死に演技してるのかもしれないね。
だとしたら、ちょっと可愛いかもね。
人生は演劇だ、素晴らしいじゃないか。
私も主役になって、演じてみようかな。
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