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ジャズピアノ日誌 Bebop奏者になりたい(4)ゴダイゴの「ガンダーラ」と父

週末です。みなさま、ご機嫌いかがですか。わたしのような証券アナリストは季節労働者で2月は忙しい💦 昨日は午前中に取材が3件も入っており、書かなきゃいけないレポートも溜まっております。今日は孫の面倒をみつつも、夕方まで仕事に追われていました。ようやく一段落して、ピアノの練習を少し…しかし、最近、この南流山研修所では、カラオケマイクも購入して、写真にあるように、「歌謡曲のすべて上巻」「同下巻」と「フォークソングのすべて」それに歌詞編をそろえています。社員や友達が来た時に、生演奏で伴奏するための備品投資です。

仕事を終えて、夜、パラパラと譜面をめくって、おお、懐かしい!となるわけですね。おい、Bebop奏者になるんじゃなかったの?Bebopどうした??と突っ込まれてしまいますね。ちょっとタンマ。いま、昭和歌謡にはまってしまって…いけません。昭和に、はまりました。

名古屋の妹から連絡があり、父がとうとう、階段を登れなくなり、足が急に衰えてしまって、ショートステイにお世話になることになったと。心配です。

名古屋にピアノがあれば、帰省したときに、父の好きな昭和20年代の歌謡曲を演奏できるのに。父の十八番は「東京の花売り娘」(1946年上原げんとの作曲)です。

わたしが中学生のとき、ゴダイゴは大人気でした。ユーミンとゴダイゴのコード進行はどの曲もしびれる。

ジャズにはなかなかアレンジできませんが、まずは初日ということで、つまりながらも弾いてみたのは、「ガンダーラ」(タケカワユキヒデ作曲)。ドラマ「孫悟空」(1978年)の主題歌だったと思います。NHKのドラマ「男たちの旅路」(1976年から1982年)でもゴダイゴのミッキー吉野が音楽を担当していたと記憶しています。

いまの方にはゴダイゴ、男たちの旅路といっても、わからないでしょうが。

「ガンダーラ」は1978年10月リリースされましたが、15になりたてのわたしは反抗期でしたね。父は教師でしたが、夜中に徘徊している生徒と屋台のラーメンを一緒に食べるような熱血ぶりでした。クラスで作った映画が近所で公開されるなど、新聞にも何度も載った名物先生でした。痴呆症になったいまでも当時の生徒さんが実家に遊びにきます。

父に救われたこと

 ちょっと私事になりますがご容赦ください。わたしは高校を卒業してすぐに、名古屋を離れましたので、若い時に父としっかりと話した記憶があまりありません。22歳でピアノを辞めて大学に復学するときに父と進路について話し合いました。18歳で島根大学に進学するときには、父は、浪人して、第一志望の大学に行けと主張しましたが、そのときのわたしは、受験そのものを軽蔑していたので、父のアドバイスは心に響かなかった。ミュージシャンになるんだからと心に決めていたので、わたしにとって大学はどこでもよかったんですね。一番、心に響いた父のアドバイスは17歳のときでした。わたしは学校と対立して、退学になりそうだったんですね。父が転校先を見つけてきてくれた。「お前は間違っていない」とも言ってくれた。そのときのことは、はっきりと覚えています。わたしは退学になってもよいという覚悟をもって学校と対峙しましたので。こう考えてみると、父は、重大な進路に関わるときだけ、声をかけてきたことが今になってわかります。親心子知らずですね。父のアドバイスはわたしの人生でたったの3回だけでした。超ピンポイントですね。でも、その父のお蔭でわたしは救われました。小学生の低学年のころは、「もうやらないな、男と男の約束だぞ」といって父はわたしのいたずらをよく許してくれました。

ガンダーラ

中学生のとき、父と一緒に「男たちの旅路」を居間で見まていました。ガードマンの上席にあたる鶴田浩二と部下で新人の水谷豊の価値観が真正面から衝突するドラマです。当時の父は43歳。わたしは反抗期でほとんど父とは会話をしませんでした。一方、わたしの4人の息子たちは、なぜか、反抗期らしい反抗期がなく、強いていえば、次男が18歳のときにわたしと大喧嘩したぐらいです。今となっては、当時の父の年齢を大きく超えてしまった。

父は4人の息子の保育園の卒園式の様子を一本のビデオとDVDに編集してくれました。孫たちをとても可愛がってくれました。そんなことを思い出しながら、ガンダーラを弾いてみました。「フォークソングのすべて」(後藤裕編集)は541曲収録された全音の出版です。


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