後悔というものの大きさ
高校がキライだった。
3年間の記憶はすべて灰色。一日もはやく抜け出したかった。
卒業式の日は晴れ晴れしていた。やっとオサラバできる。
社会に出て、ぼくはテレビ番組のディレクターになり、映画監督になった。ぼくは才能のある演出家ではないが、何十年かその世界で生きてこられているのは、多少は向いているのかもしれない。
しかし世の中には、大人になってわかることがたくさんある。ぼくが今日ここにあるのは、あの高校の3年間があったからということに気がついた。卒業から20年も経っていた。
ぼくの通った高校は私立の高校で、男子校だった。
進学校とも言えず、生徒の半数以上は今でいうヤンキーだった。ぼくもご多分に漏れず、どうしようもない落第生で、数学はことさら理解できなかった。
大嫌いな数学を担当されていたのが、よりによってぼくらのクラス担任の藤本先生だった。30歳前後、いつもタバコの臭いをまとわりつけ、時には二日酔いで顔を赤くしながら、3年間ぼくらの数学の教鞭をとられた。
数学の授業は、ぼくにはロシア語の子守唄でも聞いているようなものだ。
「授業の邪魔をしなければいい」
と、藤本先生は机に突っ伏して寝ていたぼくの頭を小突きながら苦笑いをした。
「だから、いびきはかくな」
授業の邪魔をしなければいいなら、本でも読むか。数学の授業時間は読書の時間になった。
1年生のころはまだしも、2年、3年生となると、もう完全に理解できない。
厄介なのは中間や期末試験だった。数学の問題用紙は2問ぐらいしか設問がなく、それさえなにが質問されているかもわからない。
45分間の試験時間をどうするか。白紙で出すしかない。ぼくは考えた。いくらなんでも白紙では先生も困るだろう。そこで、どうせ0点ならと、設問を鉛筆で消し、答案用紙に勝手に自分で問題を書いた。
『「ノーメンクラトゥーラ(特権階級)」について述べよ』
この言葉はたまたま当時の新聞にでていて覚えたばかりの言葉だった。
なぜソビエトは特権階級を生み出してしまうのか、自分の考えを書き連ねた。
今にしてみれば、とんでもなく青臭い内容だったろう。が、45分間ぼくは書き続け、気がつけば答案用紙の両面びっちり文字で埋め尽くしていた。
一人ひとり教壇に呼ばれ、テストが返却された時、ぼくの答案には「30点」の採点がされていた。
「欠点にはしなかったぞ」
藤本先生はにやりと笑った。
以来、調子に乗ったぼくは毎回のネタを考えはじめた。
その都度、先生は、
「今回の話はまだまだ論考が足りない」
といいながら、「30点」はつけてくれ続けた。
他の高校のことは知らないけれど、ぼくの高校では論文形式の試験が多かった。書くことが楽しくなってきていたぼくは、設問とは答えがズレてしまおうが、未熟であろうが、答案を埋めることは苦にならなくなっていた。藤本先生に限らず、他の先生方もなぜかぼくの答案を評価してくださり、配点20点のところを40点くださったり、模範解答として学内に張り出されたこともあった。
藤本先生はまた、ぼくにたくさん本を勧めてくれた。笠信太郎「ものの見方について」、三木清「哲学ノート」、小林秀雄「考えるヒント」、和辻哲郎「古寺巡礼」…ぼくは貪るように読んだ。中でも梅棹忠夫「文明の生態史観」は、こんな視点があるのかと興奮して手を止められず、朝まで読み耽った。
結局3年間、藤本先生は一度もぼくに「数学の勉強をしろ」と言わなかった。
3年生になり進路指導のとき、ぼくは藤本先生に
「映画監督になりたい」
といった。そのときのあ然とした先生の表情は忘れることができない。
当時日本には映画学校はなかったし、映画界も斜陽の一途にあった。ましてや地方の人間にとって、農家になるという方がリアルだった。
「それは、おれもどうしていいのかわからん」
藤本先生は素直におっしゃった。
「映画監督というのはいろんな知識をもっているだろうから、まずは大学で専門知識を身に着けてもいいんじゃないか。それから映画監督をめざせ」
と、大学進学を勧めてくれた。
藤本先生はぼくが受験する大学に内申書を提出される際、ぼくをこっそり呼んだ。
「本当は絶対見せちゃいけないんだが」
そういいながら、自分が書き上げたぼくの内申書を見せてくれた。
落第生であるぼくを、これ以上ないほどベタぼめしてくださっていた。
「どうだ、いい文章だろう。これ書くのに朝までかかったんだぞ」
そして、ぼくは大学に合格した。
高校を卒業して以来、ぼくは一度も藤本先生も高校も訪ねなかった。せいせいしたという気持ちがいっぱいで、高校時代を忘れてしまいたいぐらいだったからだ。
が、社会に出て、テレビ番組をつくりながら、自分のものづくりの視点が、藤本先生やその高校の先生方が指導してくださったことが原点として、つながっていたことに気づいた。
あの3年間がなかったら、ぼくはここにいられなかったに違いない。
高校を訪ねようと思った。
私立高校だから先生方も転勤はないだろう。定年退職はされているかもしれないが、お会いしお礼をしたいと思った。
いつがいいだろう。映画監督になりたい、と自分の夢を一番最初に伝えたのは藤本先生だ。映画を作ってからと、心に決めた。
そこからさらに10年かかった。
高校を卒業し紆余曲折の30年目、ぼくはやっと一本映画を作ることができた。
一番に藤本先生に報告し、観ていただくため、ぼくは地元に帰り、高校を訪ねた。
「すごく時間がかかったけれど、約束通りやっと映画監督として一本、映画を作ることができました」
ぼくは先生に申し上げるお礼をなんども心のなかで吟味した。ため続けた想いは言い尽くしても足りない。
30年ぶりに訪ねた高校で、事務局の女性に、藤本先生にお会いしたいとお願いした。
「藤本先生ですか? 数学の?」
事務局の女性は、お待ち下さいといい残したまま奥に引っ込んだ。
先生は退職されたのかもしれない。ならば、ご自宅に伺おうと考えた。
女性が戻ってこられた。
「…藤本先生はお亡くなりになりました」
ぼくは凍りついた。
「もう十数年前で…癌だったそうです」
ぼくは女性の言葉を受け止められず、その場で立ち尽くした。頭と心の中が混乱していた。
これまで苦しいことも楽しいこともあった。岐路に立った時はすべて自分で決めた。反省したことは山のようにたくさんあるが、人生で後悔したことは一度もない。
生まれてはじめて、後悔というものの大きさを知った。
もっと早く先生に会いにくればよかった。
40代も終わりに近かったぼくはひとりになって、声を上げて大泣きした。
自分でも驚くほど、涙がでた。
藤本先生は数学の教師として、県下近郊では有名な教師だったらしい。
在学中、他の先生方が、
「県のトップクラスの公立高校や九州の超難関進学校からの誘いを断って、ここにいるんだぞ。おまえら、ありがたく思え」
と、だれもが藤本先生を評していた。
10代なかばの生意気ざかりなぼくたちは、ご本人に対し、
「先生、なんでそっちに行かないんだよ?」
と囃し立てた。
先生は一瞬、照れたように頬を赤らめ、
「おれは私学が好きなんだよ!」
と、怒鳴るように叫ばれた。
藤本先生に出会えなければ、ぼくの人生は違っていた。映画監督など、とうの昔にあきらめていただろう。
はじめて出した身勝手な答案のように、先生はぼくの作った映画を観て、何点つけてくれただろう。酒でも交わしながら、もう一度、先生に叱られてみたかった。
どうしようもない落第生であったぼくを、可愛がってくださった先生。
まともに授業をうけなかったぼくを、最後の最後まで期待してくださった先生。
それが先生のおっしゃった「私学」だったのだろうか。
せめて墓前にお花を、とお願いし、学校でも調べてくださったが、もうご実家もお墓もわからないという。ぼくはいまだに先生にお礼を申し上げられないでいる。
いま都内では、卒業式を終えた学生たちの姿をあちらこちらで見かける。その姿にぼくは、校舎にのこって生徒を送り出した先生方の胸の中を想像する。が、教師でないぼくにはうかがい知ることもできない。
春風の吹く卒業式のあの日、藤本先生はぼくたちを、どんな気持ちで送り出してくださったのだろう?
(2017年3月18日記)
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