ドレスコードの悪夢
サラリーマンであれば、とりあえずはスーツにネクタイ、革靴。
これが恐ろしいことに、どこでも通用する。ラフにしたい時は上着を脱ぎ、ネクタイを外せばいい。便利だ。
ただし、日本に限る。海外では行き先やその場、仕事にあわせたドレスコードが存在する。
「日本人はいつでもスーツだから堅苦しく、つきあいにくい」
と、云われたことがある。
ビジネスの場においても、スーツを着ているのは経営陣やファイナンス関係者であって、ぼくらのような自由業は絶無に等しい。
来週からロスに行く(2017年5月)。
荷造りに悩んでいる。
滞在は10日間。若干着替えが必要な日数だ。荷物はなるべく減らしたい。
むかしシンガポールに行った時、パスポートと財布、下着と靴下だけをいれたコンビニ袋一つだけで行った。海外に行く格好に見えないと、同行者に驚かれた。
着替えのシャツは現地で安いものを買えばいい。しょせん3泊だった。
ロスは昼間は一年中通して、だいたい晴れている。午前中は曇り、午後から必ず晴れる。一年中ほぼ天候が変わらないので、映画産業が栄えた。撮影スケジュールが組みやすかったからだ。
Tシャツとジーンズ。あとは夜は気温がさがるので羽織るものがあれば事足りる。
ロスへの旅は荷造りが楽だ。
それでも悩んでいる。
3年前ロスへ行った時、銀行に口座を開いた。
その銀行の副社長は日本人の女性の方で、
「うちのオーナーが、お客様を招待しているパーティがあるので来ませんか?」
と誘われた。
顧客といってもぼくらはお小遣い程度の金額しか入れていない。
銀行のオーナーは、ほかにも5つ銀行を経営しているという。さらにはプロバスケットチームのオーナーでもあるのだそうだ。
そんなビリオネアのパーティなんて、おかど違いだ。
「これも経験になりますよ」
そのひとことには弱い。
しかし、パーティに行くような服は持ってきていない。
「固いパーティではないので、カジュアルでいいですよ。ジャケットだけで」
N女史はそういうと、招待状をくれた。
ぼくと弟の健二とスタッフの3人は、とりあえず襟付きシャツとジャケットを買いに行った。ズボンは持ってきたチノパンでいいか。
ロスのダウンタウンには、大きな会社や金融関係の会社が集まっている。いわばビジネス街だ。
パーティ会場は立ち並ぶ超高層ビルの中にある。
エレベーターのところに警備員が立っており、招待状を見せると最上階だと教えられた。
摩天楼の最上階。エレベーターのドアが開くと、いきなり入口に金文字で、
<The Club>
とだけ書いてある。
嫌な予感した。
近代的なビルとはうって変わって、内装は木製のドアに赤い分厚い絨毯。引き返すべきだと、胸のうちで警報がなった。
が、ドアマンの笑顔の威圧にあらがうこともできず、中に入れられた。
なかは品のよい調度品に飾られた広間で、壁はすべてガラス張り。夕日に赤く染まるロスの街が一望できる。
まだゲストはほとんど来ていない。ウエイターが飲み物をもってぼくら3人のところにやってきた。
警報がさらに高鳴った。
ウエイターのほうがいい服着てるじゃない!?
ぼくら3人はN女史の言葉のまま、ノーネクタイの襟付きシャツにカジュアルジャケット、下はチノパンだ。
パーティはまだ始まらない。まんじりともせず、ただただ帰りたかった。
健二がトイレからあわてて帰ってきた。
「兄貴、トイレに行ってみ。すごいぞ」
トイレに入って、嫌な予感は実感に変わった。
トイレは恐ろしく広い。壁の一面はガラス張りで、ここも下界が一望できる。
鏡の前にはグルーミングの道具がずらりと並んでいる。なにに使うものかわからないものもある。立派な靴磨きの道具まで置いてある。が、それはいい。嫌な実感が湧き上がったのは、便器である。
便器が一つしかない。
日本の2LDKぐらいの広さのトイレに、便器が一個だけ。
なに。
なんなの。
この広いトイレは一人用なの。
うんちをしながら下界を見下ろせる特等席ということなの。
なんなの、この世界観は。
人が集まってきた。
警報は赤色灯に変わった。
男性はみなダークスーツにネクタイしてるじゃないか。女性はドレスを着ている人もいる。
しまった。
アメリカ人のフォーマルはタキシード。
カジュアルはスーツだったのか。
ノーネクタイでいいですよ、といったN女史を恨んだ。
エレベーターに近い入口はカジュアルの男たちとドレスをまとった女性で溢れかえってきた。出口を塞がれた。ぼくたちは追いつめられるように、ガラス張りの壁際、一番隅のテーブルに逃げた。
祈る。
はやく終われと祈る。
背後を振り返ると、テーブルにはだれもひとり座っておらず、ダークスーツやドレスの女性たちが大きな山のようにそびえている。
その中にもうひとり、ノーネクタイの男性を発見した。ちょっと安心した。
やがてその男性はぼくらの座ったテーブルの前にやってきた。が、男性はそのまま通り過ぎると、ぼくらの目の前に立った。
「Welcome!」
そのひとことに、大広間は静まり返った。
ノーネクタイの男性こそ、オーナーだったのである。
最悪の事態になってしまった。
オーナーの一番前に、ぼくたちはいることになってしまった。
万事休すとはこういうことをいうのか。
背後にはゲストの大群。目の前はスピーチをはじめたオーナー。
動くに動けない。時間が凍りついた。
オーナーは自分の持っているプロバスケットチームのことやスター選手との内輪話を、ジョークを交えながら話をしているのだろう。みな、そのつど笑っているが、ぼくらにはさっぱりわからない。
ただひとつ明白な事実は、この会場でノーネクタイはオーナーとぼくら3人だけだったということである。
20分ぐらいのスピーチが終わると、オーナー自らがビンゴ大会をはじめた。
気づくべきだった。
ぼくらのテーブルの前には、景品が山積みされていたのだ。逃げることに意識がいっぱいで、そこが正面だったことにまったく気づかなかった。
オーナー自らが番号を読み上げると、会場中が沸き返る。当選したひとは前に呼ばれ、オーナーと話を交わしながら、商品をうれしそうに受け取る。
このときのビンゴほど、当たらないでと願ったことはない。
無事ビンゴも出ず、ようやくフリータイムがやってきた。
ぼくたちは脱兎となりエレベーターに転がり込んだ。
地下のバレーパーキングにおり、係の人に駐車番号のメモを渡す。運ばれてくる車を待つ間、先客に気がついた。
さっきのオーナーがいた。
オーナーは、コートを羽織った老人をお見送りしているらしい。オーナー自らとは、老人は銀行の最上級の顧客にちがいない。見るからにビリオネアのオーラを放っていた。
待つ間、ぼくらは顔を伏せていた。はやくベントレーでもロールス・ロイスでも迎えにこい。
ところが。
なぜかぼくらの車が先に案内されてきてしまった。
ビリオネア2人の前に、レンタカーのビッツが横付けされた。
一瞬、オーナーが驚いた目をしたのをぼくは見逃さなかった。
ぼくたち3人は、2人の前を横切り、ちいさなてんとう虫のような車に乗り込んだ。パーティ会場の一番前にいた場違いな格好をした変なアジア人である。
オーナーのあぜんとした視線は忘れることができない。
日本は楽だ。
日常生活の中で、細かいドレスコードは求められない。日本人にとって日本社会でのスーツはとりあえず万能だ。
それで今回の渡米。ぼくたちは小さな映画祭に出席する。
スーツはいるんだろうか。革靴もそのためだけに必要だ。荷物が増える。
まるで規模はちがうが、フランスではまもなくカンヌ映画祭も始まる。カンヌ映画祭では、出席者は全員タキシードとドレスが求められる。
ところが、うそかほんとか、唯一監督だけはなにを着てもいいそうだ。
俳優もプロデューサーもフォーマルがマストであるのに、監督だけはTシャツ、ジーンズ、スニーカーで、レッドカーペットの上を歩くことを許される。
じゃ、ぼくもそれでいいのか。
いつものTシャツとスエットで。
(2017年5月6日記)