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瓶の中の海
蝶ネクタイをしたブレンダーはたずねてきた。
「名前は…なににしますか?」
ぼくはふるさとの海の名前をつげた。
「響灘(ひびきなだ)でお願いします」
世界にひとつしかない万年筆のインクができあがった。
万年筆のある生活をはじめて、インクにもたくさんの種類があることを知った。
定番である青や黒も淡いものから濃いものまで、さらにセピア、グリーン、黄色、赤系などなど国内外各メーカーがそれぞれ趣向をこらしたさまざまな色のインクを発売していて、ゆうに百は越えているだろう。どれも美しく選ぶにも苦労する。
そのなかでセーラー万年筆には「オリジナルブレンドインク」を作るというサービスがある。客の希望に合わせたインクを目の前で作ってくれるのだ。そのためにインクを調合する「インクブレンダー」が日本中をまわっている。
ちょうどその方が日本橋の三越にこられることを知り、さっそく出かけた。
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国内でたったひとり、インクブレンダーの石丸治さんはこれまで15000色をこえるインクを作られてきたそうだ。
インクはシアン(青)、マゼンダ(赤)、イエロー(黃)という色の三原色をもとに作られる。それぞれの配合率を微妙に変えると、無限に近い色数が生まれる。石丸さんはまず、客の希望する色の系統を聞きながら、それまでの経験をもとに三色を配合する。配合した混色をカクテルシェイカーにいれて振る。
その姿はまさに「ブレンダー」だ。
できあがった色をいちど、紙の上に試し書きをする。その段階でさらに相手客の声をききながら配合を変えて、希望する色に近づけていく。なんどもブレンドを繰り返すので、石丸さんの指はインクに染まり、十指は虹色になっている。
「何色にしましょう?」
石丸さんの言葉に、ぼくは自分のイメージを伝える。
「深いグリーンで…黒に近い海の色です」
その海の色は、ぼくのふるさとの海の色だった。
響灘と呼ばれる海は西日本の北西側にあり、日本海に連なる。冬は冷たい風にふかれて波が立ち、人を寄せ付けないほどに荒々しい。が、夏になると照りつける太陽の光に水面はキラキラと輝き、青さを通り越えた深く黒い緑の世界が広がる。
高校生のころ、友人たちとつれだって、その海の小さな海水浴場に通った。浴場といっても砂浜もなく、海の先に突き出した岩礁から、海に飛び込むのだ。
水深は30m近くあっただろうか、飛び込んだ先は太陽の光さえも届かない暗い世界が広がっている。そこを素潜りで海底まで潜っていく。さざえやウニがたくさんいたけれど、ぼくたちはそれを採ることもなく、誰が一番深くまで潜れるかを競っていた。息が続くまで潜り続け、海面に浮かび上がると再び岩場によじ登り、海に飛び込んでいく。浮かび上がる時、仰向けになって浮力にまかせて海の中を漂い昇る。
この瞬間の、目の前に広がる光景。
どこまでも果てしない海の中で、自分がちいさな生命体であることを実感した。
それがぼくにとっての、海という世界の存在感となった。
海面の先にある太陽が波にゆらぎ、海の中を通り抜けてきた光がスポットライトのように線を引いて海の暗い底まで伸びていく。水圧で音の聞こえない静寂ときらびやかな光のアンバランスは、いつまでも浸っていたい世界だった。
岩場にはフジツボや貝が繁殖していたので、素足のぼくたちはみな血まみれだった。それでもなお飽きることもなく、延々と海へ飛び込み続けた。なぜ誰もなにも採らなかったのだろう? いま思い出しても、それが不思議で仕方がない。きっと友人たちも、海というゆりかごに漂う感覚を楽しんでいたに違いない。
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5回目あたりの調合で、ふるさとの海色のインクはできあがった。
「響灘ですか…」
石丸さんはそうつぶやきながら、出来上がったインクの名前と番号をカードに書きつけた。
セーラーでは次回からその番号を伝えると同じインクを作ってくれるリピートオーダーというサービスをやっていた。残念ながら、今年に入り、そのサービスは休止している。
「懐かしいですねえ」
石丸さんの言葉に、思わずぼくは顔をあげた。
「私も、響灘にはよく行きました」
驚いた。
石丸さんは同郷の方だったのである。
作ってもらったインクに、つよい愛着が湧いた。
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先年の夏、数十年ぶりに、その海を訪ねた。
夏であったのに、まったく人影がない。海水浴場はなくなり、遊泳禁止の立て札が立っていた。ぼくたちがよじ登っていた岩を高い波が激しくうち、近づくこともできない。
海は変わってしまったのか。
もう二度と、あの海の底に戻ることはできない。
二度と、あの静寂と光をみることはできない。
海の底から見上げた、海の色。
あの海はいま、机の上の瓶のなかにしかない。
(2017年2月4日記)