姫乃たま『永遠なるものたち』を読んで
毎夜、就寝前に少しずつ読み進んだ。
お薬のような文章だから服用する量に注意しなくてはならない。どのエピソードもさりげなく優しい導入部分が口当たりよいから。じゃあ次はどうなんだろう?とまたすぐに気持ちよさを求めそうになってしまう。焦らずにゆっくりと体の中で言葉を溶かしながら思考を整理していけばいい。
じわりじわりと効いてくる。
小説ではないが単なる日常の記憶でもない。
読者は姫乃たまさんの舞台上には存在しないけれども、ゆらゆらと浮遊する彼女の思考を追いかけたり見失ってるうちに自分の様々な記憶の舞台に立つだろう。
だから、薬の作用が切れる前に僕は本を閉じ眠る。明日の楽しみを残しておくために。
「レズ風俗」の話が最初のクライマックスで、「なんて心あたたまる話なんだろう」と泣いてしまいそうになった。
正直に告白すると下世話な想像といやらしい期待をしながら読み始めた。謝罪したいくらいに恥ずかしいことだ。そんなおじさんの甘い勘違いを凌駕するほどにそのエッセイは純文学で、今まで見たことのない映画のようでもあった。
人と人とがいることはとても恥ずかしい。少なくとも僕はずっとそう思いながら生きてきた。恥ずかしくてたまらないんだけど、恥ずかしくない理由を見つけて恥ずかしくないフリをしている。
でも、やっぱり「恥ずかしい」と自らが認めることで、初めて「恥ずかしい」は「恥ずかしくない」になる。
男女とか同性とか関係なく。
自分の初体験は風俗でした。沸々と湧き出る下心が恥ずかしくて、自分が男であることが恥ずかしくて異性とスムーズに話すことができないでいた。
スムーズに話せないと次の段階に行けないと思い込んでいた当時の僕は完全に行き詰ってしまい、面倒くさいあれこれをすっ飛ばすべく風俗店に飛び込んだ。
飛び込んだ、は比喩でなく本当に文字通り飛び込んだのだった。
なんの下調べもすることなく(ネットはない時代です)、とりあえず歌舞伎町に行けばなんとかなると思い新宿を彷徨った。知識も何もなく衝動的に訪れたのだから、どの店に入っていいか見当がつかない。
怖いお兄さんが出てきて法外な代金を請求されたらどうしようか?と無駄な知識しか頭にない。
結局、なんとなく深夜テレビで聞いたことがあるような店名だったのと、入口に店を訪れたお笑い芸人さんのサインが飾ってあったのを決め手に飛び込んだ。
目的のはっきりしたお店である。やることは決まっている。
特別な過程もなく、気づけばベッドに女の子と裸で並んで座っていた。裸になってしまえば、もうこれ以上隠すものなど存在しない。当然のように裸だから恥ずかしがってる暇がない。
これ以上の恥ずかしいことがないのであれば、あとはもう何を話しても同じである。何を話そうが、かっこよくてもかっこ悪くても関係ない。初めて人と緊張せずに話すことを覚えたのは風俗だった。
狭い個室の固いベッドの上で隣に座った時に感じた女性の肌の体温を今でも覚えてる。裸と裸でくっつくのはなんてあったかいのだろうかと。これ以上に単純なことはないなと思うと同時に、お金を使ってその単純さを買ってしまった後悔。とんでもなく悪い人間になったような悲しい気持ちにも陥った。
しかし、その日に初めて会って、ほんの数秒しか接していないのに「初めてだよね?」と言い当てられて驚いた僕の顔はさぞかし滑稽だったことだろう。あんなに大事に大事に隠し持っていた秘密がこんな簡単に見つかってしまうなんて。
今にして思えば理由はよく分かる。顔にも体にも答えが丸出しだったに違いない。なのにまるで僕は初めて見る手品に驚いたかのようなキョトンとした顔をしていたはずだ。とんでもなく悪い人間になりきることもできずに。
そんな調子で姫乃たまさんの記憶を追いながら、自分の記憶の穴を覗き込み眠る日々が続いた。
ふわふわと永遠に続くように感じていたエッセイは終幕に近づくにつれて様相を変えてきた。
物語の終わりが見えてきたのだ。
どこにもいないはずの「わたし」が現実と非現実や未来と過去、境目の無い世界を永遠と彷徨っていたはずだった。その「わたし」が確実にどこかを目指して方向転換を始めたのだ。
頁を捲りながら、僕を乗せた「乗り物」が速度を上げていく。
「わたし」が肉体という場所を見つけ「わたし」に還っていくかのようなラスト。まるで一本の長い小説を読み終えた時と同じ感動があった。
感動の余韻に浸りながら再度「はじめに」の頁に戻った僕の目に入ってきた言葉は「股下三角」であった。
驚いた。
忘れてたわけではないけど、とにかく可笑しかった。
「股下三角」という言葉なんて、これまでの人生でほとんど聞くことも使うこともなかった。確かに今時珍しい言葉から始まる本だな…と思ったけれど、毎夜読み進めるうちにその言葉はどこかへ忘れ去られていた。
しかし、その具体的であり、同時に抽象的でもある場所の概念が「穴」となり「入口」となっていたから僕は自然と言葉の中へと溶け込めた。股下三角からずっと見ていた世界に卑猥さもあまり感じることなく、どこかノスタルジックなものを感じていたのは、そこがかつては存在しながらも今は無い場所だからなのかもしれない。
大学生の頃、小川美潮さんの歌が好きでした。彼女がチャクラというバンドを組んでいた時の「まだ」という曲が大好きでいつも聴いていたのです。
それから四半世紀を経て、姫乃たまさんは『パノラマ街道まっしぐら』というアルバムの中でカバーしました。驚きますよね?
「運命」とか「繋がってる」とかいう言葉は胡散臭いし、良い音楽は歌い継がれていくんだよねーとしたり顔も違う気がします。
「生きていれば時々よいこともあるんだよ」
そんな気持ちで十分だなと思うんです。
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