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「選ぶタイミングが3秒前だったり、もっと早かったりする人生で」

 この間運転免許を取りに2週間の免許合宿に行ってきた。そもそも取る気もなかったし車が怖い(お互いの考えていることやましてや表情も読み取ることができないのにある程度の秩序が成立してしまっているのはよくよく考えてみればかなり異常なことなのでは?)のだけども、親の圧力もあり行ってきました。そこから「選択」の話を今回はしようかと。

 仮免許試験をパスし、怯えながら向かった初の路上教習。進路変更や右左折とかは、教科書とか教習所内のコースで、理屈ではわかるし、ゆっくりな運転なら理解できている。だけどいざ道路を走ってみると、そのタイミングや適切な距離感などがつかめなくなっている。まあ私が運転に向いていないのだと言えばそれまでの話(実際かなりの回数隣の教官に指摘された)なんだけども、その期間中私は段々と「これは選択の話なのではないか?」と考えるようになった。

 冒頭でも少し触れたが、なんとなくわかったことに、どうやら車道は一つの複雑な社会らしいという事がある。フロントガラスで互いの姿こそ確認できるが、「お先どうぞ」「ありがとう」などの会話は交わされることはない。それでいて、この社会は止まることがない。もし一台の車が交差点で座礁してしまったら、その社会が前提としている円滑な交通(交わりながら通るという、かなり「社会」を感じるワードだ)を妨げてしまうだろう。そこで必要なのが「選択」だと思う。

 このタイミングで進路変更をしても大丈夫だろうか、後続車に迷惑がかかるからむやみに減速はできないな、などといった「選択」を瞬時に、かつ適切に行わなければいけない。それは普段のコミュニケーションの場でもそうだろう。これを言ったら相手はどう反応するだろうか、など色々な想像を巡らせながら、それでも会話という交通を止めることなく即時に選択の結果を出力しなければならない。

 そう考えると、なおさら私には難しい……ということを痛感させられる。選択の結果後悔ばかりしてきた私は、そのまま道路を走ったら事故をたくさん起こしてしまうだろう。

 前段の文で終わっても良かったのだけどもう少し。選択の結果。人生というのは、運転を覚えた今「運転しながら経路をその都度選び取り、そこで渋滞にはまっても誰に責任を押し付けるようなこともできない」みたいなものなのかなと思うのだけど、まさに「引き受けるのは自分」ということがミソなのではないかと。安易な自己責任論に加担するわけでは決してないけども、この何かと流れが早すぎる社会ではどうやら選び取った選択肢を丸ごと受け入れることが是とされるみたい。事故を起こしても誰も助けてくれないような感じだろうか。うーん、なるべく拒否していきたいなと思う風潮だ。私が何かを選ぶときは色々な物事を勘案しながら行いたいものだし(責任はもちろん私にあるとしても、だ)、他人の選択もゆっくり待てる人間でありたいと思う(渋滞を起こすものであっても、場合によっては良しとしたい)。本来それが社会だしコミュニケーションなのではないかなとも思うし。益々運転に向いていない気がしてきた。

 また、「何かを選ぶ」ということは「何かを選ばないということを決めた」ということと同義であるということ、その残酷さも忘れないようにして生きていきたい。そしてここで、高校の時ふらっと自習監督として現れた先生の突如始まった雑談で「幸せと不幸せの総量は死ぬときにプラマイゼロになる」という話を思い出す。ありきたりかもしれないけど、選択するとしたら、後悔はしても否定はしたくない(他人の選択を目にした時であっても)と思う。

 とりとめがなさすぎる文章でした。また次回に。


<ここで一曲>

「あなたとならいいよ」という、選択の結果生まれる究極の肯定に救われてます。

書いた人:ユーカリ
一言:部屋が汚くなってきました。メンタルにも波及してくるので、この悪循環を止めなければ。

WACODES

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