何からはなそうか。
思えば21年も生きてきて、その中で記憶があるのは18年くらい。相当色々な思い出が蓄積されている。「恥の多い生涯」とは「人間失格」の一節だけど、まさにその通り、いい思い出よりも失敗した、恥をかいた、そういう記憶の方が長く定着しているように思う。漢字を覚えるときに沢山書かされるのはそれが身体的な定着を目的としているのと同じように、嫌な思い出は泣いたり、顔がカーっと紅潮したりと、体に出る反応の形ではっきりと残っているからなのだろうな。
これらのしんどい思い出がふとした瞬間に蘇る。恥ずかしい思い出とかならまだ布団にもぐって叫ぶくらいで済むかなとも思うのだけど、嫌な思いをした記憶がふと現れたときには、さすがに対処に困る。気持ちが暗くなったり、場合によっては本当に情けなくなったり。
話は変わるけど、私は断捨離ができない。片付けをなまけてしまう癖も原因にはあると思うのだけど、多分一番は私の、モノへの執着心だろう。自分が手にしたものを失ってしまう恐怖心といった方がいいかもしれない。せっかく自分が手にしたのだから…と、モノを手放すことができない。「これいずれ使うかもしれないしな…」とか考えて、大していらないものがどんどんたまっていく。多分人間関係もそうで(独占欲という形での執着心)、そのせいで結構人に迷惑をかけたりしているかもしれない。思考のあり方もそうで、色々な思索がこんがらがって、がんじがらめになる。この性格は、何かと現状維持を望んでしまい、色々なことに一歩踏み出すのにとてつもない時間がかかるという点で、はっきり言って不利だ。
まず手放したいことが一つ。
(この文章自体も少しこんがらがって焦っている今の私。)
当然嫌な思い出に執着する義理は一切ないし、「モノ」への執着と書いたから記憶に対して執着心は手を伸ばせないはずなのに、どうしてもふと蘇ってくる。記憶(特に悪いもの)は学習、もっと言えば進化のために必要なのはよくわかるのだけど、ここに対する執着心も手放したいところ。
じゃあどうやって手放すか。その前に、ハリーポッターに出てくる「憂いの篩」という道具をご存じだろうか。こめかみに杖をあて、取り出したい記憶をその篩の中に閉じ込める。だからといってその人はその記憶を忘れるわけではないけども、私がこの道具に出会い「これは」と思ったのは、この道具が、「記憶を他人に共有する機能を持つ」ということだ。劇中ではダンブルドアやスネイプ(だったかな)の凄惨な記憶をハリーは見せられるわけだけど、これもっといい使い方ができないかなと思うわけです。
人に何か弱みを見せるというのは相当しんどいもので、憂いの篩の中を他人に覗かせるのはなかなか迷惑で、ハリーも本来なら「知らんがな」という思いで見てたりしてただろう。運命を引き受けるというのはとても大変なことだと思うし。だけども、自らが知らず知らずのうちに持ってしまっている辛さへの執着をいったん手放してみて、何かしらに預けてみること。それを信頼できる他人や媒体に、他の人が触れる形でいったん置いておくこと。それぞれの「憂いの篩」としてSNSやそれこそnoteなどプラットフォームができたことによって、メンタルの問題とか、何かと溜まっていることを「こめかみから引っ張り出す」ことができるようになったのはそこそこ良いことだと思う。「話す(あるいは書くという形)」ことで「手放す(とはいかないまでも一旦別の場所に置いておく)」ことができたら、辛いこととはうまく距離がとれる、不要な執着心を振り払うことができるのではないかと思う。
当然、憂いの篩みたいに経験や記憶をそのまま映像として見せるわけにはいかないから、もしかしたら言語化という割と結構高いハードルがあるのかもしれない。私だって苦手だ。どうしても長くなってしまうし。それに、安易に経験や記憶の共有に対して共感を示したり、それを期待したりするのも何か違うかなーと考えたりする。ただ、その中で救いになることがあるのならば、それを頼ることもアリだし、そういう風に他人と色々分け合ってやっていくのが社会だしな、という話でした。それぞれに色々な思い出があったりするでしょう。何からはなそうか。
<ここで一曲>
他人と乗り越えなければならない「運命」を花の壁と喩えたのは、それを祝福と捉えているからのような気がする。それに立ち向かうために、二人で分け合うという選択をしたこの歌詞の主人公は偉いと思う。悲しみも二人なら半分に…みたいな歌詞は溢れているけど、それをこんなに美しい歌詞に言い換えるのは見事としか。
<前回#せんたく の投稿をもっと読む>
<この記事に関しての詳細はこちら>
#大学生 #専門学生 #ラジオ #jwave #はな