第3回友好演武大会(下)
植芝合気道の特長は、対柔道・対銃剣術があることである。『竹下ノート(乾之巻・坤之巻)』には、対柔道については146手記録があり、対銃剣術も対槍・対銃創とし20数手記録されている。なお、銃剣術については、『武道』にも「第六 銃剣」として掲載されている。
盛平門下の門人を見ると、合気太刀や杖については、富木謙治や望月稔らの戦前派は全く知らない。塩田剛三も戦前末期の人だが杖は知らない。斉藤守弘の少し先輩である砂泊兼平(諴秀)は合気杖を知っていたという結果がある。昭和12年から鹿島新当流を習い、マスターするのに10年かかったとすれば斉藤(昭和21年入門)が盛平の武器技を最もよく知っていたことも理解できる。
第3回演武大会では、島津が小太刀の技で、太刀を取り落し、言い訳をしていたり、近藤も鼻の頭を拳で当てられたり、1か条で極められた時、最近受身をしていないので…と言い訳をしているところが気になった。(完)
補足説明:銃剣術とは、銃の先に剣を装着した武器をもちいた白兵(刀・剣・槍などの総称)戦のための武術です。稽古は木銃の先にタンポを付けたものを用います。日本では古来より長柄に短刀を装着して戦う方法があり、槍術の影響を受け銃剣術として発達しました。明治時代の建軍ではフランスの制度を取り入れたためフランス式の銃剣術が持ち込まれましたが、実用性が低いなどの理由から廃れ、日本式の銃剣術が復活しました。その後、銃剣術は大正14(1925)年に大日本武徳会の独立科目となり、昭和16(1941)年大日本銃剣道振興会創設にともない正式名称が銃剣道となりました。
『武道』における技法も、銃剣側(受手)は、左半身、左手で銃身の半ばを持ち、右手は銃把を持つ構えをとっており、攻撃も「直突を行う」すなわち、銃剣の位置を変えることなく突く(狙いは心臓)とあります。これに対する捌きは対杖(対槍)のそれを用いています。