会津紀行4
今夜の泊まりは東山温泉である。母成グリーンラインから猪苗代湖北岸に出ることになった。猪苗代湖は磐梯山の南麓にある。この湖は四季の移り変わりの変化を見せる磐梯山の勇姿を映し天鏡湖とも呼ばれている。猪苗代湖北岸は長浜を中心に天神浜、志田浜などで夏は水泳・水上スキー・ウインドサーフィンで賑わう。
会津藩初代藩主は保科(松平)正之であり。これを祀ったのが土津(はにつ)神社である。会津藩祖の墓といっても今や訪れる者も全くないといった感じだ。保科正之は2代将軍秀忠の第4子であった、東北を固める四方投の理合が藩祖の意思であった。
会津若松城を鶴ヶ城という。この城に対し猪苗代湖を守る出城を亀ヶ城(猪苗代城)というのである。2、30人の侍が常駐していたらしい。戊辰戦争で官軍に包囲され、落城焼失した。
写真は戊辰戦争の激戦地十六橋の戦いの古戦場跡である。対岸に官軍、こちらが東軍。現在の橋は明治になってフランス人技師の設計で猪苗代湖ダム化のため、門を兼ねた16径間の石造アーチ橋として建設されたものである。
土津(はにつ)神社は亀ヶ城の後方の小高い丘に立っている。猪苗代湖を支配する水軍の城が亀ヶ城で、この城を守れば会津は守れる、という考えは、戦国時代以前の思想であった。昔は猪苗代湖以外の道を通るのは困難だったので、難攻不落の地であった。土津神社は亀ヶ城が敗れたとき援軍が来るまで後退待機する場所で、戦略上の要地であった。築城術の分野に入るのであろう。日光東照宮が江戸城の後方換地であるするのと同じ発想である。初代藩主保科正之は土津神社に自らの遺言で墓を造らせた。ここに墓地を置くと言うことは、これより先は絶対に入れない意思表示であった。周辺の山また山は江戸城が箱根を天下の険としたのと同じ発想だった。
保科正之を藩祖とする会津の国情、すなわち我々は徳川家と同格の家である、という意識が、賊軍の汚名を着せられても最後まで戦った会津藩の根底にあったのだ、と思う。保科正之は将軍秀忠の生母である西郷局(つぼね=家康の側室)の直系であり、兄家光が三代将軍になった。四代将軍になってもおかしくない家柄であることの誇りが、徳川慶喜の江戸城引渡しに反感を持ち、徳川家再興のために頑張ったのだ。