秘伝・合気道 堀川幸道口述 鶴山晃瑞編 7
(承前)意を決した菊五郎は小者に「先ほど、桟敷の左の方からかくかくしかじかの・・・ヤジを下された方がおられたが、どんなお方か、お探しして、よろしかったら、その理由を菊五郎に是非ともお聞かせ願いたい、と申し伝えてくれ。」と頼みました。
早速、小者は客席に飛び込み「恐れ入りますが、この当たりで菊五郎師匠にお声を掛けてくだされた方はどちら様でしょうか?」と聞いて回るうちに、「あー、それはワシだよ」とランランとした目をした小柄な老人が答えたのでした。
その夜、武田先生は青年俳優菊五郎に武人の法則を教えたのであります。武田先生曰く、武蔵坊弁慶は武人である。花道は山道のことであろう。武人が片手で杖を持ち、笈(おい)を背負い草深き山道を疾走するときは、いつどこから敵が飛び出してきても防げる体勢と手捌き足捌きでなければならない。先生は六方の足捌きから始めて、半身、呼吸、手、握りなど指導したのであります。
菊五郎は能・狂言の修行は武術修行に似たところがあると先達から聞いていたことから、早速研究したとのことであります。
武田先生からその滞在先を聞いていた菊五郎は、千秋楽に「私の六方を見てください」と迎えをよこしたのであります。
菊五郎は千秋楽の日に惣角直伝の六方の口伝を駆使して思いっきり弁慶を演じてみたところあれほど人気がなかったのに、今回は
「菊五郎!六方も日本一!!」と大向こうから声がかかったのであります。
簡単に指導しただけの六方が千秋楽で見事に活かされ見違えるようになったこと、菊五郎の悟りの早さに武田先生は驚くとともに、「東京の人は恐ろしい、大勢いるだけに芝居を見る目の鋭さは大したものだ。」と後年しみじみと語っておられました。
一方の菊五郎も「六方も日本一!!」と声がかかったのは千秋楽だけではありましたが、苦心して六方を研究しただけにその結果がお客に認められたことを非常に喜び、そのお礼にと赤坂で宴会を設け武田先生を招待したのです。(この宴席芸者を30人も揚げるという豪華なものだったようです。)
この席で菊五郎は、「先生、六方も日本大向こうから声がかかったときは、劇評家の評判が悪く内心くさっていただけに、そのことが楽一日のことではありましたが。先生のご忠言どおりの方法で研究いたしました結果、御ひいき集にもお認めいただきまして、本当にうれしく存じます。何も説明しなくても、見る人が見れば分るものなんでございますね。これも先生のおかげです。菊五郎こころからお礼申し上げます。」と感謝の言葉を述べたのであります。
こうして菊五郎は弁慶については自信をつけたのでありましたが、当時の興業界の事情で、昭和5(1930)年大谷竹次郎の経営する松竹が東京の歌舞伎興行を一手に握ることになりました。九代目團十郎追善興行以来、勧進帳の極め付け俳優として、幸四郎の弁慶、羽左衛門の富樫、菊五郎の義経のトリオが定着し、菊五郎の弁慶は二度と世にでる機会がなくなったのでした。
その後、菊五郎は昭和6(1931)年に新宿区若松町に合気柔術の道場(皇武館のこと)が出来たと聞き、これに入門したのでした。(完)
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