合気評論5
2植芝派合気について
伝統派の大東流合気柔術は、明治・大正・昭和にかけて武田惣角が日本全国を旅して数多くの師範や門人を養成しました。戦前は、現代のようにマスコミが発達していませんでしたし、惣角も広く宣伝して人を集め集団指導するという教伝方式をとりませんでした。惣角にとっては、旅をかけての修行・伝道でもあり各地に多くの門人とその技を残しました。
各地の名士・軍人等を中心に、その門に入る者約3万余名といわれています。数多い門人の中でも、吉田幸太郎・植芝盛平・久琢磨・松田敏美・佐川幸義・山本角義らの各師範が流儀の道統を宣揚しております。
現在「合気道」を唱道(人に先立って唱える)している植芝盛平は兄弟弟子の吉田幸太郎(茨城県日立市田尻町屋敷秋葉神社側に居住)に紹介されて北海道遠軽村で入門し、約90日間の教伝を受け教授代理となったのです。(続)
補足説明:英名録によれば、大正4年2月に盛平(32歳)は入門しています。遠軽村において、信田寿之(北海道議会議員)、吉田幸太郎らと教伝を受けています。一方、吉祥丸著『植芝盛平伝』によれば、「所用にて宿泊中の遠軽町久田旅館にて、たまたま大東流の達人たる武田惣角師範を識った。その秘技に感服して滞在を約1カ月延期し、同師範より大東流柔術の教授をうけ・・・」とあり、推薦者たる吉田幸太郎の名前は一切出てきません。上記3名は、このとき大東流柔術の教授代理の資格を得たのでした。
大正5年には、上湧別村白滝で教伝を受け、その後惣角の助手として、小樽市他に随行しています。