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植芝盛平考3
(承前)盛平と私の武道歴を比較すると、意外なことが眼に映った。
○盛平も私も銃剣術をやっている。年数は共に3年ちょっとで同じだが、私の方が早い。
○盛平が銃剣術をやっていたころ、私はボクシングをやっている。
○盛平が大東流を知ったのは、北見新聞の記者吉田幸太郎の紹介で32歳の時である。私も同じ32歳で合気道を習い始めたが、この時既に新道夢想流杖術や空手を習っていた。
○大正10年の第一次大本教事件を契機に植芝塾で護身法を指導するため、大正11年惣角を招聘し大東流合気柔術の教授代理を授与された。このとき盛平39歳であった。私は36歳から久琢磨の37歳から武田時宗の指導を受けている。
○大本教弾圧のため、生活手段として上京し個人指導を始めたのが大正14年ごろ42歳である。昭和2年には大本教を離れ拠点を東京に移している。この時44歳。私は34歳の時、電電公社東京合気杖道部を立ち上げ、300人の会員を集め合気道・杖道の指導とマネジメントを始めた。そして43歳で『図解コーチ合気道』を発行する。
○昭和6年若松町に専門道場(皇武館)を開く、このとき盛平48歳。私は、46歳の10月にACCの講師となり専業となった。
○盛平50歳の時『武道練習』を発行、といってもとりまとめたのは弟子たちであったが・・・、私は50歳で独身となり行動が自由になる。ACCの教室は横浜にも出来、3か月ごとに朝日新聞に名前が載るようになった。
○大阪朝日新聞社で指導した昭和11年、弟子の久琢磨が盛平の武術を宣伝(新聞)している。盛平と同じ53歳の時、私は2冊目の書籍『中国拳法』発行を発行、ゴーストライターなどはなく当然自筆である。
○昭和13年盛平55歳『武道』を発行、私は『護身杖道』を発行し大東流の本流を確立する。この年、西ドイツの雑誌『マーシャルアーツ』に「AIKIDO 花輪泉・ヘルムードバルテル 共編」が掲載され、評判となる。(続)