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土方二百人と惣角一人の大喧嘩1

『図解コーチ合気道』出版準備として綴られた鶴山先生の原稿・メモがあります。書かれた時期は不明ですが、昭和40年代前半ごろのものと思われます。今回からこれを紹介しますが、綴り全体を連載とすると、まとまりがつかないので、適宜分割してタイトルを付すこととしました。
 
「第1章合気武道の歴史」と題された原稿ですが、現存するものは、本項の1項目だけです。
この内容は『図解コーチ合気道』には掲載されていません。なお、この逸話は、津本陽著『鬼の冠(昭和62(1987)年11月30日発行)』の中でも紹介されています。
 
土方二百人と惣角一人の大喧嘩
合気武道の存在が一般化されるにつけ、武田惣角の武芸談を自分のことであるかのように言う者が現われてくる。

明治9(1876)年、帯刀禁止の布告が発せられ文明開化の思想や風俗が、江戸から東京に名称が変えられたように、たちまちのうちにその流行は全都を制圧下の下においた。

福島県史によると、明治15(1882)年2~6月の項で三方道路の工事(会津を起点として,北は米沢を経て山形へ,西は新潟へ,南は大田原を経て東京へと通ずる大道路工事)について触れている。
ジャーナリストであった宮武外骨著(みやたけがいこつ)著の『明治密偵史(1926)』によると、「福島事件高等法院 公判傍聴筆記」等の文献を資料として、旧薩摩藩士であった県令三島通庸(みちつね)の圧政に対して起こった福島事件について、悪県令として糾弾している。武田惣角先生の大乱闘事件の逸聞(いつぶん)は丁度この頃のことであった。

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