会津紀行7
東山温泉で泊まり、翌日8時半には喜多方方面に出かけた。喜多方は会津盆地の北部でどこを見ても蔵造りの商店街である。東山温泉から約45分、願成寺は市街の北西にあり堂々たる山門の奥に重要文化財の阿弥陀三尊像が安置された大仏堂があるらしいが、見学する時間がなかった。大坪先生は願成寺の住職に面会し時宗氏からの手紙の件(*)で質問したが、この寺は関係がないとのことであった。
*昭和46年4月の手紙ことで、要旨は保科正之の前の会津藩主であった加藤明成に仕えた武田主税なる者が願成寺で切腹し、武田家ゆかりの(武田菱)銘刀などが保管されている云々、というものであった。
住職によると、願成寺は蒲生氏郷の家来により荒廃させられた加納の庄のものと、上杉公が会津に入ったときに若松城下会陽町に再興したものがあり、会陽町の願成寺は後に願成就寺と称したが若松城落城後消滅した。加納の願成寺は保科正之が会津に入ったとき再興(今に続く)した、とのことであった。いずれにせよ喜多方に来て初めて願成寺の存在が判明した。この辺の事情については時宗氏は少しも説明したことはなかった。
(会津の領主の変遷 伊達政宗→蒲生氏郷(豊臣秀吉の命)→上杉景勝→蒲生秀行→加藤嘉明→加藤明成(会津騒動)→保科正之)
さて、喜多方まで来たのだから、更に北に行き会津三十三観音第5番札所である示現寺に行くことになった。示現寺は熱塩(あつしお=塩分が強い68度)温泉にあり江戸時代には会津藩主の湯治場所であった。ここに行くことになったのは、大坪先生の大学時代の同級生の家が旅館を経営していたが、戦後会ったことがない、ということで予定を変更したのだった。田んぼの連続で温泉などどこにあるのか不思議に思える平地の連続である。東山温泉にしても平地であるから会津そのものが高いところにあるのだろう。示現寺に立ち寄った、ここは禅の修行場となっていた。大坪先生の同級生の旅館は潰れて何処に行ったか判らない、とのことであった。