戊辰の年の年賀状10-江戸柳生と鶴山先生-
鶴山先生のアプローチ、勢法(形)を精査・分析し、時代背景・社会状況を勘案し理論を見いだす、杖道でも合気道でも大東流でも中国拳法でも同じ手法をとっています。ただ、独自の視点を見いだすこと、これが凡人にはできないのです。コロンブスの卵のようなもので、いわれてみれば「なーんだ」とか「なるほど」となりますが、気付けない、先生が天才であった証左でしょう。
さて、柳生流柔術を基礎技法とする合気柔術、すなわち大東流三大技法における人之巻は、note既述のとおり江戸柳生系合気柔術とも称しますが、なにを持ってそのようにいうのか? 鶴山先生は全勢法との関連性(「戊辰の年の年賀状9」参照)を見いだし、そのままつながっていると解釈されたようです。しかしながら、筆者はこの解釈には賛同できません。先生が言う(作表されている)関連性は、こじつけの感があるからです。
筆者は現存する尾張柳生家に伝わる新陰流兵法を学んでいますが、そこから気付いたことは明白で、合気柔術を構成した人物は新陰流兵法を熟知していたに違いない、ということです。すなわち、新陰流兵法の体の使い方がそのまま形を変えて取り込まれているのです。
具体的には、執刀法はそのまま手の内(朝顔から始まる展開のことです)に、太刀の振り方はひじの処理や肩関節の使い方(潮の満ち引き)に、二の切は基軸(ひざ下直角)に、猿廻はひざの使い方(非力の養成)に・・・まだまだありますが、勢法の一連の動きというより、各パーツごとの武術的に正確な使い方を見いだし、体術に再構成した、というのが筆者の見解です。介者剣術すなわち斬れない相手をどう掴まえて、制圧するのか、そこからすべてが始まったのです。上泉伊勢守以降の伝書は、当たり前のことですが剣術視点で書かれています。しかしながら、そこにはその技術を支える武術的に正しい体の使い方あった、ということです。(完)