西郷頼母と国家老(下)
頼母は、政治的判断から「幕府が現在置かれている情勢を鑑みると、京都守護職を受けることは薪を背負って火を救うようなものだ、労多くして功はない」として、京都守護職受命に反対したのである。反対の理由には、藩の内部事情もあった。国家老として藩政を取り仕切る中、京都守護職にかかる費用を負担し続ける余裕はなかったからだ。京都守護職受命に伴う費用補填もあったが、公家達へのあいさつ(数千両)、交際費、会津藩兵1,000人の維持費(滞在費、交替に要する費用等)など莫大な経費がかかるからであった。
慶応3(1867)年12月の王政復古クーデターによって成立した新政府によって、朝敵とされた容保は、慶応4(1868)年に鳥羽伏見の戦いに敗れ帰国した。容保は恭順の意を示しつつも、自身の経歴から政府軍の攻撃を受けることは避けられないとみて、軍制改革を行い国防を強化した。これに対し家老に復職した頼母は、無条件降伏を進言したが、受け入れられなかった。この直後、関東から会津の入る最重要拠点であった白川口の総督(司令官)として参戦している。頼母は軍事的能力があったのか、非戦論者であった頼母がなぜ総大将になったのか。
西郷家は藩祖以来、松平(保科)家を補佐する立場にあることから、頼母は職責として司令官を受けたのであるが、2ヶ月ちょっとで、総督を罷免されていることからすると、軍事的な才能はなかったのであろう。会津藩を中心とする列藩同盟軍は軍事的に優秀な司令官がいなかったためか当初の優勢な兵力を生かしききれず、新政府軍に敗れ続けた。その後も、頼母は恭順を説き続けたが、受け入れられることはなかった。この数ヶ月後に、結局、容保は降伏し、会津藩は廃藩となった。
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