お陰で受けた朝日の光-合気道3
(補足説明承前)久は『学生相撲の回顧』(朝日カルチャー女性合気道会報第1・2号昭和50年7・9月)において・・・
自分(久)は子どものころ、小児ぜんそくがひどく、体も小さく腕力も微弱だったので、同級生・下級生からも「弱虫」とからかわれ、いじめられた。村に来た素人相撲の横綱・大関クラスの人から相撲を教わり、努力した結果高等小学校卒業のころには近郊近在で敵なし「小嵐」というしこ名(祖父の名を引き継いだもの)で有名だった。卒業後、父が亡くなったことから、大阪に丁稚に出て成器商業(相撲も強い学校)に入学するが、この際小学校長から「相撲厳禁、勉学に励め」との命を受け相撲を断念していたが、堪えられず東京に逃亡、野中医院の薬局生となり夜学に通う。たまたま見つけた羽田の相撲大会に飛び入り参加し5人抜きで1等賞をとったことから、小学校長の許諾を得て成器商業に復学、学生相撲に参加するようになった。その後、神戸商高に進学相撲部に入った・・・
このころの学生相撲界について、「隆盛なる関西学生相撲界(角道狂人:明治大学大西氏)」において「大阪では阪大・関大をはじめ中等学校の相撲部の盛況まで詳報し、大阪に次いで盛んなのは神戸である。神戸商高は最も傑出し相撲部の総師は石井光次郎だ。彼は学問にも優秀で常に主席、高文に合格し台湾の後藤新総督の秘書官となり学生相撲選手のために気を吐いている。その傘下には現在でも名選手多く、その中の久ごときは小兵ながらその功者なる。」と解説している。(補足説明終り)