沢庵和尚6
この情報活動では、家康は石田三成の行動探索のために、その参謀長格の島左近を訪ねて調査するよう手紙を書き宗矩を通じて石舟斎に依頼している。また、慶長5(1600)年4月には三成の計画を察知し、三成の誘いに乗るなとの五奉行あての警告文(秘書)が江戸柳生家の文書にありその情報活動の一端が垣間見える。このように、石田三成・沢庵宗彭・柳生宗矩は関係していたのであった。
そして、沢庵と宗矩が再会する。
誰か玄関の方で訪ねる声がした。宗彭が出てみると、粗服で質素な一人の武士が古ぼけた網笠をかぶったまま待っていた。「又右衛門でございます。」と丁寧に頭を下げていた。
「おー、柳生殿か・・・これはお久しぶりじゃ、さあ、お上がりなさい。」
森閑とした院の一間に案内した。又右衛門は旅の武者修行者のように粗末な袴ながら括淡(てんたん)として宗彭の前に坐った。
「七八年ぶりになろうか、そなたも立派になられたのう。」
「和尚はいつもお健やかで・・・」
「したが、よくわしを探し出したものだ、どこから聞いて来られた。」
「相済まぬことながら、三玄院の様子を探らせましたので・・・拙者は徳川殿の家来に相成りました。」 やがて宗彭は、
「お身がこのたび徳川殿にお味方されたのも、またこのわしが治部殿の一族に結縁したことも、これみな因縁である。これからも天下は麻の如く乱れるわけであるが、これは皆同朋の行き違い、兄弟間の血の争いじゃ、どちらに味方しても事の間違いは同じ事じゃ。」