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再び柳生流躰術について4-柳生十兵衛三厳-

さて、この12年間について、十兵衛自身はその著『飛衛』において「愚夫故ありて、東公(幕府の公職)を退きて、素生の国(大和柳生庄)に引籠もりぬれば、君(家光)の左右を離れたてまつりて、世を心のままに逍遥すべきは、礼儀も欠け、天道もいかがと存ずれば、めぐる年12年は故郷を出ず。」とあり、柳生の里にいたことがわかる。この「愚夫故ありて」すなわち、勘気の理由は定かではないが、赦免後の沢庵からの書簡には、「酒さえ飲まなければ万事相調う」から気をつけなさいとあり、その性格と酒癖の悪さが、原因であったのであろう。

では、故郷で何をしていたかというと『月の抄』序文(意訳)によれば・・・
先祖の跡を訪ね、兵法の道を学んでも、心が落ち着かない。伊勢守から石舟斎への目録や父宗矩の目録を取り集め、門人に問うても、ある人は知り、ある人は知らない。知っている人から見聞きして学びこれを集めてとりまとめてみたものの、なかなか体得できない。寛永14(1637)年には、5月から秋の終りまで江戸柳生道場の夏稽古に参加した後、『飛衛』を父に提出した、とある。
すなわち、12年間は、柳生の里で新陰流兵法の研究と門弟指導に当たっていたのである。
 
○十兵衛の研究は最終的に無刀取り(奪刀法)を極めることにあった。新陰流の勢法は最終的に無刀取りに収斂するからである。太刀があれば勢法を使い、太刀がなくても手元にあるもので戦うことが出来る、その究極が無手である、ということだ。(補足説明:その成果は、十兵衛杖にとりまめられています。)

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