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大東流の新羅三郎説(下)

大東流合気武道は今から800余年前の清和天皇の末孫である新羅三郎源義光を始祖として大東の館で修練されたことにちなみ大東流と称され、代々甲斐源氏武田家に伝承された秘術であることは周知の通りであります。
天正元年4月12日武田信玄公他界し、一族武田国継、信玄の遺書を持って会津に下向し天正2年甲戊3月会津到着、芦名盛氏公に仕え小池の地頭となり以来会津武田家に伝来された。この秘術を会津御式内と定め藩主家老重臣小姓等奥勤者に習得させた護身武芸である。武田国次の末孫武田惣角は会津御池の御伊勢の宮の屋敷に生まれ、会津藩主歴代継承された小野派一刀流を渋谷東馬に学び(略)神職にあった兄惣勝が明治9年春死去、同年秋祖父惣右衞門の高弟であった都々古別神社宮司西郷頼母改め保科近悳の許で神職見習いに入るが、間もなく、西郷隆盛の支援のため武者修行しながら西下し明治10年2月15日西郷隆盛挙兵の報に九州に急行するもすでに警戒厳しく目的果たせず、戦後九州各地巡回修行し、九州日向鵜戸明神に参籠祈願し裏山アビラ山にて心身鍛練修行す。という時宗氏の主張はあきれるばかりだ。
津本陽の『鬼の冠』の中でも同じことを書いている。小説だから…といえばそれまでだが、誤った伝説が流れる由来となる、という悪影響もあるのである。

明治28(1895)年、大日本武徳会設立との情報は東北にも流れた、そこの主流は剣道の撃剣であり、捕方武術の柔道であった。公武合体に向け整備された「幻の武術」、西郷頼母は、この現状を踏まえ旧会津藩関係諸藩の人たちに、その内容を教えるよう指示したのである。このことは、惣角の英名録を追えばよく理解できる。英名録の冒頭に、陸前国涌谷城主・亘理胤正(わたりたねまさ)が出てくるが、身分からして西郷の紹介状がなければ、会えるハズもない人物である。そして「幻の武術」に大東流という名称をつけ、併せて、新羅三郎源義光由来とする伝説を付加することで、無学無字の惣角に武士の格式伝統を理解させようとした、苦心の跡がよくわかるものである。例えば、徳川武士が刀を抜くのは三つのみ、①戦争、②主命、③切腹であるとする、教えなどであった。(完)

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