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新陰流考6

ところで、柳生宗矩は元亀2(1571)年生まれ、宮本武蔵の出目は定かでなく生年もわかっていない。武蔵の生年を通説の天正12(1584)年とすれば宗矩とは13歳差、宮本家系図に基づく説では天正10(1582)年なので11歳の差があった。
ここに「鵜之真似(小倉藩の藩士小島禮重(よししげ)が小倉藩の逸事、風と俗、地誌を記録したもの)」という伝書がある。それによると、武蔵が宗矩のもとを訪ねた折りの一挿話が引かれている。

ちょうど登城間近だったので、面会を拒まれた武蔵は、それでも執拗にご教授いただきたいと、取り次ぎの者を介して申し入れた。そして「剣術の位は」と宗矩が問いただしたのに対して、武蔵は「電光石火」と答えた。すると宗矩は「今少し、ご修行なさいますように」といい、武蔵がそれを推して「では、但馬守殿におかれては、何と心得まする」とただしたところ、宗矩は「春風表のごとし」と答えたというのである。

この問答は、技術一点ばかりの武蔵に対し、すでに形而上学的(=形を超えた精神的な)世界を持っていた宗矩の方が剣相において優れているという逸話であるが・・・。この伝書は徳川後期のものであって、実際には、一万石の大名である宗矩に浪人武蔵が面会できるはずもない。また、江戸柳生を一般剣術と同じ位で見ている作り話である。江戸柳生は徳川家の家臣達に広く教えたものではなく、将軍しか習えないものとされていた。もし武蔵という浪人者と剣問答をしたとしたら、将軍家指南役としての品格を失ってしまうべきことである。それほど徳川三代将軍時代には、格式が重んじられた武道であった。諸藩に伝播された新陰流も殿様にのみ教えるという前提が、武蔵が生きていた当時の格式ある江戸柳生であったのだ。

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