武道と忍法(下)
さて、昭和18年頃、池袋の東口駅前、現在の三越があったあたりに池袋演芸場があった。ここは吉本興業の常打小屋で、漫才、手品、落語をやっていて、私は中学生の頃だったのでよく通ったものである。ある夏の日戸隠流忍術○○代宗家と称し、3人の者が出演したのを見た記憶がある。リーダーは痩せた細顔の男だったと思うが・・・出し物は手品などでよく使う金魚鉢に気合を掛け火炎をあげるもの、水槽に白い粉末がいっぱい浮き上がったのを目を丸くして見ていた。大根を人の体の上に置き切断したり、最後は、戸隠流秘伝と称して3枚折りの屏風の中に、初見の先生とおぼしき男が入り、屏風の中から白煙が出てきて、屏風が客席方向に倒れると布でこしらえた大きな蝦蟇(ガマガエル)が現れ拍手喝采となるのであった。それ以降、私は昭和26年ごろまで忍法に対する興味と情報収集が続いたのであった。
最近(昭和58(1983)年5月)亡くなった綿谷雪(わたやきよし)先生のところに、「武芸流派大辞典」中の大東流について書換えの予定だったところ、近藤勝之が抗議を申し込んで来たということで、大坪先生と一緒に行ったときのこと、(武田時宗が資料提供した)「大東流800年の説は誤り」を私が説明すると、綿谷先生は我が意を得たりと納得していただいた。
このとき「千葉で忍術をやっている男がいるが(初見のこと)、全く荒唐無稽であれはマンガである。忍術の伝書である万川集海(まんせいしゅうかい)も後世の人間が作り上げたもので、古伝と言っても初出以降100年も経てばあれでも古流とされるのであるから、戸隠流は初見の先生がデッチ上げたもの」と盛んに言っておられた。綿谷先生は当時「武芸帖」という雑誌を個人出版しており、その中で戸隠流を紹介していたので、何を根拠に・・・と思った記憶がある。高松寿嗣がやったという「戸隠流、九鬼神流、玉虎流、虎倒流、義鑑流、雲隠流、神伝不動流、高木楊心流」を受け継いだと言うが、このうち九鬼神流と高木楊心流以外は怪しいのである。一度その伝書を見たいものである、伝書を見た綿谷氏の考証を知りたいものである。(完)
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