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江戸柳生雑感(中)

江戸時代の兵法(軍学)は、戦国の合戦や同時代の軍師の言行を研究することによって成立している。徳川安定政権のもとでは、これら軍学者は実践指揮を第一義とすることではなかった。小幡景憲が集大成した甲陽軍鑑などがその例である。兵法は、兵法学者の個人的名前が付けられるように、徳川時代では多分に武士としての個人的な教養を高めるための学問の一環として位置づけられていた。余談であるが、講談師の先祖は徳川時代の軍師であった、といわれるのもこのためである。
戦国時代の軍師(竹中半兵衛や真田幸村など)と江戸時代の軍学者は同一視すべきものではない、現代の経営者と大学の経営学者の違いのようなものである。江戸柳生は、例えて言うなら、このハード(経営者)とソフト(経営学者)の部分を宗矩が実践をもって家光に教えたということだ。
さて、江戸初期の兵法家であった由井正雪は楠木流兵法(南北朝時代の知将楠木正成の兵略・戦術)を指導していたが、幕府に対する反逆行為の実践は、楠木流兵法とは関係のない軽薄なものであった。由井は巷間に言われるような謀反はやっておらず、昭和初期に天皇制支持派が強行した大本教弾圧事件と同じ構造で、由井を張本人に仕立て上げたと見ることが出来る。反面この事件(慶安の変)、由井は軍師ではなく軍学者であったことの証明事項となるものである。だからといって、江戸軍学が実践軍学と無縁であった訳ではない、陽明学の流れをくむ大内内蔵助は山鹿流兵法(やまがりゅう=山鹿素行創始の武士道と兵法との融合を図ったもの)を実践した軍師で、吉良上野介討ち入りを実行した。

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