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沢庵和尚4

ところで、沢庵は石田三成との関係があった。
慶長4(1599)年、石田三成は居城佐和山城に瑞嶽寺を草創した、この寺に宗彭の師薫甫(きんぽ)が入ったので一供に入った。三成は大徳寺の信仰厚く、その亡母の追善のため瑞嶽寺を草創、春屋和尚を開山にし、その弟子薫甫を二世にした。宗彭は師に従って瑞嶽寺で朝夕を送っていた。
慶長5(1600)年宗彭も28歳になり秀喜より名を改めてから6年過ぎていた。この年・・・
 6月、徳川家康は会津の上杉景勝を討伐のため大坂城を出陣
 7月、石田三成ら挙兵
 9月、関ヶ原の戦いで西軍大敗、佐和山城も落城
 10月、石田三成六条河原で斬首
余儀なく薫甫と宗彭は、佐和山城を離れ大徳寺塔頭(たっちゅう=大寺のいわば寺内寺院)三玄院に帰ってきた。この三玄院というのは、14年前石田三成、浅野幸長(よしなが=後の紀伊和歌山藩初代藩主)、森忠政(後の津山藩初代藩主)などが財を投じて大宝円鑑国師春屋宗園のために大徳寺中に創めたものであった。その名も、中国唐代の禅僧臨済禅師が「三玄三要」と別けたもので、
「体中玄(物事の姿や形の中に真実を見つけ出す)」、
「句中玄(言葉に込められた根本の意味を見つけ出す)」、
「玄中玄(形や言葉に囚われない真実の姿を求める)」の語に基づいてつけられたものである。


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