鶴山先生と久先生10
こういった背景には、鶴山先生個人が築き上げた業績対久先生とその関係者たちの思惑もあったことでしょう、多勢に無勢だったのです。
この教訓から、政財界とのパイプの必要性を意識し、久保田紹山先生の紹介で三菱地所社長の高木丈太郎氏に新陰流兵法の個人指導を行う、福田赳夫(政治家)を顧問に大東流合気会の設立準備をおこなうなど、新たな展開を始めたところでした。しかしながら、一武芸者で終わりたくなかった鶴山先生は道半ばにして思いを断たれたのでした。
ところで、後世の我々から見ると、「鶴山先生と久先生3 古武道保存映画制作の件」のときが、最大にして唯一のチャンスでした。しかしながら鶴山先生からすれば知らないところで一気に進行してしまった。このとき誰もが認める久先生が大東流の真相を少しでも公開していたら、以後の状況は全く違うものになっていたと思います。しかし、久先生は武田惣角との約束を守り虚構の世界を通したのです。
数年後、鶴山先生は「護身杖道」において大東流の全容を公開しましたが、時既に遅く、さざ波程度の影響しか与えられず、逆にその内容に対し疑義があるとさえ言われました。先生が存命中はまだしも、他界後は誹謗中傷もあとをたたず、定説化されたことを覆すことは困難なことだとわかります。
その後、久先生は神戸市垂水区の末娘夫妻の住まいに同居し、昭和55年10月31日午前9時ごろ逝去されました。享年85歳
鶴山先生は久先生の告別式に参加できませんでした、その理由として先生の会社の引越し日に当たっていて、自宅改築工事にも当たっていたからだと、弁明のメモが残っています。香典や49日への対応は鶴山先生らしく手厚いものでした。
「久先生のご逝去の報に接し、心からお悔やみ申し上げます。久先生が残された大東流三大技法である日本伝合気柔術の道統は、必ず專守いたします。ご安心ください。先生の在りし日を偲び遙かに冥福をお祈りします。ツルヤマ アキラカ」 昭和55年11月1日付け弔電
鶴山晃瑞、久琢磨両先生のご冥福を祈りながら連載を終えます。(完)