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盛平より先の技を教える

大阪の琢磨会には基礎技がない、これはなぜか? という書き出しで始まる、武田惣角が久琢磨に語った「盛平より先の技を教える。」の真意に関するメモです。

久先生は、「武田先生に幾度も基本から教えてくださいと言ったが、『これで良いのだ。』と教えてくれなかった。」と語った。『これで良いのだ。』とは基本は植芝盛平の技で良いという意味である。
盛平は大阪朝日新聞社に教えに来たとき、一度も大東流の名を口にしていない。このころには、盛平が流している自身が創始したとのメッキははがれ、東京の植芝門下では皆、盛平の技は大東流そのままだということを知っていた。久先生によると、「この技は見たことも聞いたこともない、と皆言っていますが、何か技名がありますか。この流儀を宣伝してあげます。」と聞いたところ、盛平は「朝日新聞社でやっているから、『大日本旭日流』と名乗ったらどうか。」と言ったというのである。
武田惣角は盛平から幾度もウソをつかれている。「あの男は信用できない。」動物的本能からそう悟ったからである。大阪で「盛平より先の技を教える。」と言った惣角の心境は何だったのか?
昭和6年4月に新宿若松町で惣角が盛平に教えた大東流御信用之手は小野派系の技法である。この意味は大正11年9月に教えた柳生流躰之術を自分が創始した技と宣伝していた盛平に、あれを教えてはいけない、他をするなら小野派系の技をやれ、ということであった。
「盛平より先の技を教える。」という意味は、このことによって盛平のウソを久に知らせるということである。惣角は久に大正11年9月の合気柔術の先の奥伝・秘伝を教えたのであった。
さて、大正11年9月惣角から柳生流柔術の初伝・中伝を習った盛平は合気柔術の代理教授の資格を得、江戸柳生の伝書「進履橋」を伝授されている。この技が、盛平がやっていた戦前の合気柔術なのである。すなわち、江戸柳生の刀法を基本とする体術であった。なお、昭和6年4月の大東流御信用之手とは、盛平が大正4~5年に習った大東流柔術第1か条30本に極意2本(旦那芸)を加えた32本なのである。

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