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伊賀と甲賀5

忍者が最も活躍した戦国時代が終り江戸時代に入に戦がなくなると、彼らの役割も変容するのである。甲賀組は家康に従って江戸に行った者と郷里に帰り帰農する者に分かれた。
幕府旗本八万騎の予備軍として甲賀組百人同心の居住地があったのは、江戸青山甲賀町・新宿百人町であった。

ところで、甲賀地方は宗教露地(ろじ)でもあった。油日岳・祝詞ヶ原山・飯道山(はんどうさん)など甲賀を取り囲むすべてが行場であり修験道、雨乞いなどの霊場地であった。都に近い霊地として甲賀は神秘化されていたのである。古くは、坂上田村麻呂を祀った田村神社、諏訪大社に関係する甲賀三郎伝説も甲賀に由来する。地元では甲賀市甲南町塩野にある諏訪社を氏神としている。この他、大岡(だいこう)寺にも諏訪社があり、甲賀と諏訪の密接な関係があることがわかる。昔は熊野・諏訪の神人はそれぞれの神社のお札を全国に配りながら、同時に売薬することで生計を立てていた。

さて、会津藩にあった太子流兵法の創始者は望月定朝(さだとも)、望月姓である。望月氏は甲賀五十三家の一つである。この望月氏は信濃滋野氏の支流で「甲賀望月」といわれた大姓であった。これは「伊賀服部」と並び称されたものである。この望月氏の系図には、阿弥・沙弥の名をもつ者が現われる。南北朝の内乱の際に、後醍醐天皇の従兄弟であった尊観が時宗(浄土宗)の遊行上人であったため、歴代遊行上人は南朝門流として宮中参内が許され、時宗門徒や熊野修験者が諜報・連絡活動を担ったのであった。

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