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小野派系と江戸柳生系の違い(下)

小野派系は、柔術118本(内訳は柔術60本+合気柔術58本)とその簡易化技法がすべてであり、これの分類分けの仕方で多くの技があるように見せかけている。柔術テクニックを自在に使えるようにとの工夫であるが、大枠は命令一下統率のとれた行動をする役割の者たちのための技法群であり、その範囲に留まるものなのである。
一方、江戸柳生系合気柔術はいわば中間管理職のための技法群で、応用技を含めると何百もの技がある。自在な対応を求められる職責の者に対する教育武道だからである。
こういった区分は、大東流が構成された経緯にある。幕末期、公武合体の政治運動の中、会津藩主松平容保は軍事総裁の任に着いたが、この時公武合体後の具体施策の一つとして準備されたものだったのである。これを「御式内」と呼んだが、この言葉は久の調査でも判明していたとおり会津藩では使われない言葉であった。では「御式内」とは何ぞや?というと…江戸柳生にそのルーツがある。江戸柳生の技法は4代将軍のころから制度化され、一般儀式(稽古)の別枠として、若年寄以上の者の必修科目が制定され、これを「御式内」と称したのである。「御式」とは定例儀式のことであるが、「内」とは表に対する裏のことを指す。つまり「御式外」と「御式内」ということで、江戸城内の表儀式(公)ではないもの、諸大名は見ることも調べることもできないものなのであった。今でいえば、宮中の天皇が行なっている宮中祭祀のような位置づけである。
ところで、この2系統を剣術の視点で見ると、江戸柳生系はまさに江戸柳生=新陰流兵法で徳川家の秘剣であるが、小野派系は旗本が習った小野派一刀流とは異なる、同じ小野派系ではあるが会津藩独自の剣術なのである。公武合体後の新体制で旧旗本と同じ位置づけだと、支障があることから、同じ小野派系といっても区別し、整備したのである。この意味から「大東流柔術秘伝目録」も会津藩内で認知されているものではなかった。(完)

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