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沢庵和尚25

「無明住地煩悩」のこと
無明とは、迷いのことで、住地とは止(とど)まるということ。何ごとに対しても執着してはいけないと説いている。では、ここではどのように武道の極意を説いたか・・・

貴殿の兵法でいえば、敵が斬ってきたところを一目見て、そのままそれに合わせようと思うと、相手の太刀に心が止まって、自分の働き(意識)が抜け、斬られてしまう。これを「止まる」という。

敵の太刀は見てはいるけれど、そこに意識を持っていかず、拍子を合わせて打とうと思わず、敵が太刀を振り上げるや否や、思慮分別を残さず意識を止めずそのまま入身して、敵の太刀にとりつけば、敵の太刀をもぎ取って、逆にその太刀で敵を切ることができる。(奪刀法のこと)
禅宗ではこれを「かえって鎗頭(そうとう=鉾先)をつかみ逆しまに人を刺し来たる」という。人の刀をもぎ取って、還って相手を斬るというのは、貴殿の無刀ということでしょう。

相手から打って来ても、我から討っても、打つ人にも太刀にも、どのようにでもどのような拍子でも、少しでも意識を止めれば、自分の働きは皆抜けてしまい、人に斬られてしまう。
敵に我が身を置けば、敵に心を取られてしまう。我が身にも心を置いてはいけない。我が心を引き締めて置くのも、初心の頃、習い初めの事である。
太刀に意識を取られ、拍子合わせに意識を置けば、拍子合わせに意識がいってしまう。我が太刀に意識を置けば、我が太刀に意識がいってしまう。これは皆、意識が1か所にとどまるということで、我は抜け殻になってしまう。貴殿も覚えのある事でしょう。

仏法と引き当てて説明してみた、仏法では、この止まる心を迷いという。だから「無明住地煩悩」というのである。


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