合気道界の将来はどうなるのか?(下)
大東流の状況
大東流関係では、山本角義が昨年(昭和57(1982)年)死に、堀川幸道も久琢磨も亡くなっている。その門下を継ぐ者の時代となった。
昭和36(1961)年筆者(鶴山先生)が始めて武田時宗を東京に呼んだが、当時時宗氏のことを知る人は、地元(北海道網走)以外では、ほとんどいなかった。昭和46(1971)年の「図解コーチ合気道」で世間に大東流宗家がいることを紹介した。これにより全国にその名が知られるようになり、中央にも進出したが、まだその門下に優秀な人材がいない。このように出版物の影響は非常に大きい、がこの周知力も10年が一区切りである。なお、出版後3年目が最も有効である。
鶴山先生の方針
筆者は組織力に関して、電電公社という官僚機構の中で連合会を組織してきた実績があるだけに、今後の対応がどうなるか?(先生は当時「大東流合気会」の設立に向けた準備を始めていたのでした。)
筆者はマスプロ普及の方式は取らない。だから道場の数は多くないが、内容充実の古武道と歴史重視、理論重視の少数精鋭主義をとる考えで、門下には文筆能力がある人や管理能力がある社会人を中心に備えるやり方を取っている。
人材について
武田惣角には、久琢磨、植芝盛平、堀川幸道、吉田幸太郎、山本角義等々の人材がいた。
久には琢磨会があるが、合気道界を支配するような人材はいない。堀川も組織はあるが世に出た人材はいない。山本、時宗もしかり。
植芝盛平にも、塩田剛三、富木謙治、望月稔、平井稔、藤平光一、植芝吉祥丸、斉藤守弘、砂泊誠秀と豊富である。
植芝門下の現有勢力は、吉祥丸、塩田、藤平、砂泊に将来性が見込まれる。このうち技法が優れているのは、塩田、砂泊で、政治力では藤平、吉祥丸、塩田、理論は藤平、砂泊となる。
昔は技術があれば良かったが、現在では技法のみではダメである。「話ができて、技ができて、文章が書ける」の三拍子が必要である。この戦列に入るのは、藤平、砂泊と筆者(鶴山先生)だけである。ただ、藤平は気の説明で通して来た男だから、植芝合気の理論家として砂泊だけになる。同氏の本は大本教の教義の解説であるからその意味で盛平の意志を一番理解している。また、同氏は呼吸力で売り出していて、盛平直伝の秘伝(猫之手伝)を公表した。