沢庵和尚15
大徳寺は、一休派・関東派・南派・北派の四派に分かれていたが、このころは南北二派が隆盛していた。南派とは大徳寺境内の南境にあった龍源院がその中心、北派は北境にあった大仙院がその中心であった。沢庵と玉室宗珀、江月宗玩(こうげつそうかん)の三名が北派の頭目となって反幕府の硬論を唱えた。
もともと元和の法度は僧侶の官位昇進名誉表彰など一切の権限を朝廷から幕府に取り上げようという成心から発せられたもので、大徳寺と妙心寺の出世願いを濫(らん)である(乱れている)とする厳しいお触れであった。京都所司代板倉周防守からいたい譴責(けんせき)をくって衆僧はひとたまりもなく戦慄してしまった。「大徳の第二の危機だ!」と一山はどよめいた。第一の危機というのは、28年前の天正19年、茶道の大師匠千利休宗易の木像を大徳寺山門楼上に飾ったという出来事で、当時の住職古渓宗陳(利休の禅の師)が太閤秀吉に糾弾され、あやうく一山の取り潰しに遭いそうになった事件である。古渓和尚は秘かに懐剣を衣の下に隠し置いて、太閤への陳謝の意が貫徹していない場合は、自ら咽喉を突いて死ぬ決意だった。その悲壮な決意によって、みごと大徳寺伽藍の破却は免れたのであった。今や二度目の大災厄に臨んで古渓に次ぐ傑僧なくば、大徳寺の浮沈は旦夕にあり(差し迫っている)と泣かぬばかりであった。