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柳生宗矩実戦経験(中)

関ヶ原の直前、会津(上杉景勝)討伐のため小山(栃木県小山市)にあった家康は石田三成挙兵の急報に接すると、側近の宗矩を急いで帰国させ宗厳の助けも借り上方勢の後方で工作活動を行なわせた。この功績により、関ヶ原の戦いの後、旧領2千石を回復したばかりでなく、翌年1千石の加増があり、秀忠の兵法師範となった。以降も昇進し家光の兵法師範も務め、警察庁長官ともいうべき総目付など任じられ、ついには大名に列せられたのである。宗矩は天下治国の剣として、その奥儀を極めるのに参禅が役立つことを家光に説いて沢庵和尚を推挙した。沢庵を気に入った家光は沢庵のために品川に東海寺を建立した。

さて、時代はさかのぼり元和元(1615)年、大阪夏の陣5月7日午後のこと、世に言う天王寺・岡山の戦いでの出来事である。家康が天王寺、秀忠が岡山口にそれぞれ陣取って豊臣方の迎撃に立ち向かったが、豊臣方の突撃により両本陣は混乱に陥り、陣立ての乱れに乗じて秀忠本陣を突かれたのである。このときの様子は「東軍騒擾(そうじょう=秩序が乱れ)して甚はだ危ふし、時に城兵木村主計(かずえ)素肌武者三十五人を連合して秀忠公に迫りたる、柳生又右衛門その場前に立ち七人を倒しなお進んで死戰す」と記録されている。秀忠を守るため、宗矩が殺人刀を振るった唯一の場面であった。


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