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植芝盛平考4
(承前)東京進出後の植芝盛平は軍部・財界人の知遇を得て飛躍した。これら後援者の支援を受け、昭和6年には牛込区若松町に皇武館道場を完成させ、昭和15年には「財団法人皇武会」が認可され初代会長は元海軍大将竹下勇であった。この時代、柔道・剣道が盛んな中、軍部と結んで合気柔術は各地に拡がった。優れた弟子が多かったことも一員であろう。しかしながら、その活躍も昭和18年までで、その後活動は抑えられ、昭和24年まで全く世間には知られなかった。戦後はゼロからの再出発となった、終戦時盛平は62歳になっていた。
当時と比較して、今の合気柔術は思うように伸びていないが、出版物及びその内容・海外に対するその知名度は戦前の日本国内だけのものと異なり、国際化した状況にあるので将来との比較でいえば私(鶴山先生)の方が有名になることであろう。
既述のとおり、武道歴及びその進展度は私の方が数年の早さをもって前に出ていることがわかる。戦後、盛平の名前が世間に知られるようになったのは、昭和29年以降であるから71歳になっていた。私が70歳になるまでは15年あるので、国際的知名度などはるかに盛平より上回ることは間違いないことは確かだ。60歳からの10年間は出発物が中心になることであろう。(続)